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Our not being a "religious organization"

KJJKは原始福音、無教会主義の単立メシアニック・エクレシアです。 キリスト教を含め、ありとあらゆる宗教を認めません。 私達は、真理をもとめ、決して群れず 個々が創造主たる神との関係を築くことを第一義としています。  私達は、聖書が神を最も忠実に伝えていると確信しています。 が、それでも、キリスト教という宗教には属しません。 しかし、私達は、原始教会のように、心を寄り添わせ メシアによる兄弟姉妹が互いの必要を支えながら生きていく共同体でありたいと強く願っています。 KJJK, Kahal shel Yeshua, Japan, Kobe is not a religious organization. We rather deny any religions including so called Christian Church. We are nevertheless a part of the ecclesial that is the body of Messiah.  We seek for the truth, never compromise, make a great importance in individual relationship with ELOHIM, the Creator. We also believe that the Bible is a true record of the Creator. As it was in the first ecclesial, our brothers and sisters will help each other and care about each other.  We are one tribe community in ELOHIM.

サロメへの預言

アビブの月 過ぎ越しが終わったある日 端女に主が御言を預けられた。 今回は神がKJJKの長老であり女性である私に預言くださったので、そのことを分かち合いたいと思います。 具体的に啓示されたヴィジョン「アダム」が「ケイティ」を「略奪し」結婚する・・・ 意味の概要:主は、純粋なる花嫁を迎える。その時が来た。花嫁を迎えに主は山をおりられる。そして、まるで漁師が魚をかっさらうように、花嫁をすなどって連れ去る。 アダムは再臨のメシアのことです。 アダムは神が造られた最初の「人」です。イェシュアは、神の聖霊によって懐妊した乙女の胎を通じて肉体を持つ神たる人、第二のアダムです。第三のアダムは、当然ですが、そのままおりて来られます。生まれてくるのではなく、そのまま完成した有機生命体として、降りてこられるのです。 彼が花嫁に選んだのは「ケイティ」「キャサリン」つまり「カタリーナ」です。私はいっしゅん、カトリック教会のことだと思いました。と、言うのは、現代のカトリックは、反省と敬虔の魂でしょうし、カトリックの方が怠惰なプロテスタントよりも、うんと神に近づこうとしている、と思っていたからです。 しかし、神はこれまでに、私を「源を見るもの」として訓練されました。言葉(ロゴス)はエネルギーです。暗号を紐解くには、その語源に目を向けなくてはいけません。カトリックという言葉も、カタリーナも、ギリシャ語の「純粋」という意味を表す「カタロス」から来ています。カトリックは純粋さを宣伝しなくては、人々に純粋さを信じてもらえなかったのです。宣教も含めて、あらゆる「宣伝」はうそと惑わしです。つまり、自分たちは不純だとわかっているから「純粋なんです!」と言わなくてはいけないのです。自分でつけた名前というのは、欺瞞以外の何物でもありません。 神はカトリック教会を選んだのではありません。純粋なる「イェホシュアの弟子たち」をお選びになったのです。 カトリック教会も、そこから脇にそれたプロテスタントも、お選びにならなかったのです。主ははっきりと「キリスト教」という宗教を否定なさいました。 具体的に聞こえた主の声:サロメ、我が墓を訪れた、私の妹よ。「イザヤの妻」(ツィポラ)それが汝の称号である。 実際に起きた事:主が端女を呼んだとき、そこに白い鳥がおりたった。「それが私の証である。う...

安息日礼拝 vol.23 2020 MAR 23 「原罪」「女」と「へび」

 本日は2020年3月23日、KJJK第23回の安息日礼拝へようこそおいでくださいました。  私には10歳の息子がおりまして、一人で育てているわけなのですが、子供のお友達のお母様がたを見ていると、危うくて頭を抱えてしまうことがあります。 去年のちょうど今頃、こういうお母様がいました。私の息子が行っている小学校は私学なのです、当然授業料が発生します。しかしながら、私も息子もこの学校が大好きです。先生が全員素晴らしいプロフェッショナルで、このクオリティーを維持するためなら、どのような貢献も惜しまない。そのように思っています。確かに厳しい規律がありますが、息子も私も聖霊の内住を受けておりますので、どのような善行も苦ではありません。タブーも規律も、私達の信仰生活を脅かさない限り、まったく問題ないのです。ある日、先程申し上げたお母様が先生に文句を言いに行ったのです。おっしゃりたいのは、規律が厳しすぎる、ということなのです。早い話、彼女のお子さんも、だらしなすぎて規律が守れず怒られるからだと思います。そこで、彼女は学校に話をしに行きました。「この学校は7年も経ってるのにキレイすぎる。私の兄はコロンビア大学。みんなノビノビしている。子供たちはノビノビ育つべき。なんでも壊せばいい。校長先生はお金持ちなんだから、校長先生が出せばいいし、私もお金は持っているから言ってくれれば、いつでも弁償する。」と、副校長に言ってきたそうです。  私は椅子から転げ落ちそうになりました。この方は中国、香港の方なので、後半部分「私はお金持ってるから、弁償はする」という言い方をなさいましたが、日本人のママたちはそういう言い方はしないでしょう。しかしながら、往々にして、現代のママという人種は「ノビノビ」という言葉を取り違えています。「自由と勝手」をとりちがえ、「アリノママとワガママ」を取り違えているのです。  実はこれこそ今日のテーマとしてお話する「原罪」から来ているひとつの「なれのはて」なのです。 今日は聖書をお読みするのではなく、「原罪」の物語を「事件ファイル」としてうけとって、当事者たちの言動を検証していきたいと思います。 皆様それぞれで、該当する聖書箇所をお読みいただけたらと思います。創世記3章1節から25節です。 楽園にいるアダムと、かれの助け手として造られた「女~イシャ~」がいま...

安息日礼拝vol.22 2020 MAR 16 「女」「名付け仕事」

 コロナウィルスが猛威を振るう中、悲しみや不安、怒りなどの思いの中にいらっしゃる方もおられると存じます。そのような人々ひとりひとりのお心をご存知の神が、あなたを顧みられるということを、神の人として宣言いたします。すべては御心故です。十字架の愛に、依り頼む者は幸いです。過ぎ越しの御業を讃美しましょう。  さて、今日の安息日礼拝は18才以下は退場していただかなくてはいけません。私も18才以下は見れないように設定いたしますが、親御さんの端末で見ている18才以下人は、自主的に一時停止して、Rei Munakataチャンネルの他の番組をお楽しみください。  まずはあなた方のために祈ってお見送りしたいと思います。 愛する創造主、唯一無二の神 あなたの尊い御名を讃美いたします。コロナウィルスによって、若者は行き場を失っています。しかし、これは貴方へ帰る道を、はっきりお示しになったのであり、貴方は若者の行き場をお奪いになったのではありません。苦しみ悲しむ人々があるこのコロナ事変の中、学校が休校になったことを、内心喜んでいる人もいるかも知れません。来週の安息日礼拝ではまさにその若さゆえに誘惑に負け堕落の第一歩を踏み出してしまった男女について学びますが、あの時もそうであったように、貴方はよくご存知ですので、気付きの光を若者の心に照らし当ててください。そして、本当の意味で、貴方の御手の中で、若者が成長し、貴方の中に留まり、喜びのなかで御国を迎えることができますように。  若者のみなさん、貴方達を祝福いたします。平安のうちに、歩みなさい。今すぐこの動画を停止して、去ったあとも貴方達が主とともにあるように。  さて、大人の時間です。  先週、人間創造が実は二回あって、創造二日目に創造された人と、創造六日目に創造された人がいます、と申し上げましたが、それはそのとおりです。  第二章は決して創造六日目のクローズアップではなく、創造二日目のクローズアップです。だから、まずは草木がない状況で始まったのです。  今日の聖書箇所をお読みいたします。 ベレシート第二章18節~23節(フランシスコ会訳) また神である主は仰せになった、「人がひとりでいるのはよくない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」そして神である主は野のあらゆる獣と空のあらゆる鳥を土で形づくり、人の所につれてきて...

安息日礼拝 vol 21 2020 Mar 09 キャストする

 さて、ついに、問題の六日目に来てしまいました。 創造の業の最終日となるこの六日目、神はついに、創造の集大成、冠として、「ヒト」を創造されます。  しかしながら、アダムとイヴァの創造ではありません。  KJJKでは、いくつかの理由から、この第一章26節~31節にある「ヒト」と第二章4節~17節にある「ヒト」の創造は別のものだと確信しております。 べレシート (創世記)01:24~31  次に神は仰せになった、「地にはあらゆる種類の生き物、すなわちあらゆる種類の家畜、地を這うもの、野の獣を生み出せ」。するとその通りになった。神は野のあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、地を這うあらゆる種類のものをすべて造られた。神はそれを見て善しとされた。  次に神は仰せになった、「われわれにかたどり、われわれに似せて人を作ろう。そして人に、海の魚、空の鳥、家畜、野のすべての獣、地を這うすべてのものを治めさせよう。」  神はご自分にかたどって人を創造された。  人をご自分にかたどって創造され、男と女に創造された。神は彼らを祝福して仰せになった、  「産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を治めよ。」  また神は仰せになった、「見よ、私はお前たちの食べ物として、全地の種のあるすべての草と、種のある実を結ぶすべての木を与える。そして地のあらゆる獣、空の鳥、地を這うあらゆるもので、およそ命あるものには、それぞれの食べ物として青草を与える。」するとそのとおりになった。神はご自分のお造りになったものをご覧になった。それは極めて善かった。そして夕べとなり、六日目が過ぎた。  まずは、第二章がないものとして、この第一章の「ヒト」の創造をしっかり見ていきたいと思います。  この日に至るまで、「地」物質世界に生き物は何も創造されていませんが、第三日目に神は「種ある実を結ぶ木」「草木」という植物を作っています。しかしながら、そちらにしても、この三日目と六日目に出てくる「地」も、私たちが住んでいる「アレツ」ではなく、「エレツ」です。つまり、この地球上のことではありません。  私としては、「どこか別のところ」という解釈よりも、「べつの価値観」という見方をしたほうが良いのでは、と感じています。「次元」という言い方でも良いと思います...

安息日礼拝 vol.19 2020 Feb 29 創造四日目

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 前回の安息日礼拝で、息子がインフルエンザにかかったと申し上げたので、たくさんの方々から様子伺いや、お祈りしてくださっていることをお伝えいただくメールを頂戴いたしました。お祈りに感謝いたします。 神は本当に慈悲深い方です。発症から約一週間たっても、リョウはもともと、体が丈夫じゃないからだと思いますが、薬を摂ったにも関わらず熱がなかなか微熱いかにもならず、親子ともども初めてのインフルエンザに当惑しました。やっと2日ほど前に熱がさがり、治癒証明もいただきました。神様の癒やしをこころから賛美します。  が、しかし、この引きこもり生活のなかで、私が感じたのは、一言で「感謝」です。病気をもらってるのに、感謝なんて変だと思われるかもしれませんが、我々をお造りになった神は、ご利益の神ではないのです。病気はたしかに大変ですが、全てを益としてくださる大きな大きな神なのです。私は息子のインフルエンザという試練の時を、息子と過ごしているのですが、本当に息子が愛らしく、病気で座るのも、寝るのも辛い時に、熱で潤んだ目で私を見ながら「ママにうつりませんように。苦しみが僕でおわりますように」と祈るんですね。私は最低最悪の人間なのに、こんな愛らしい子供の母親にしていただいて、いったい私はこれまでに、何をしてこのご褒美を頂いているのだろう、と感激しました。  私たちの「問題」は、大抵の方がこんな話を聞いても「んな子供いるわけねぇだろ」と私が大げさに言ってるように思われるんです。でも、これは、なんと幸せな問題なんだろうと思います。  この時の思い、感動が「キ・トーヴ!」「善しとした」ということなんじゃないかと思います。神が二日目に創造した「天使」たち以外の被造物に対して述べたコメントです。  息子の朗らかさ、ひたむきさ、正直さを見ていると、なんでも「OK」って気になります。そして、神にとって「病気」は取り除くべき問題ではないのだと、改めて確信するのです。  このインフルエンザという試練を、豊かに用いて、私達の信仰を支えてくださった神に感謝しています。  さて、本題に戻りましょう。創造の四日目、フランシスコ訳「ベレシート」1章14節~19節 ベレシート(創世記)1章14節~19節  次に、神は仰せになった、「天の大空に光るものあれ。昼と夜とを分け、季節と日と年を定める徴となれ。また天...

安息日礼拝 vol.16 光あれ

今日のテーマは「光」です。 「ベレシート」(創世記)1章3節~5節  神は仰せになった。「光あれ」。すると、光があった。神はその光をみて善しとされた。神は光と闇を分けて、光を「昼」と名づけ、闇を「夜」と名づけた。そして夕べとなり朝となり、一日目が過ぎた。  この聖書箇所を読むのに、ヨハネの福音書の1章を飛ばす信仰リーダーはいません。 ヨハネによる福音書一章4節と5節を御覧ください。  ヨハネによる福音書1章4節~5節  み言葉の内に命があった。  この命は人間の光であった。  光は闇の中で輝いている。  闇は光に打ち勝たなかった。  ヨハネはキリストの弟子の一人で、一番最後に福音書を書いた人です。彼は、福音書を「ベレシート(創世記)」になぞって、書き始めました。  ヨハネによる福音書も参考にしながら、ベレシートを読んでいきましょう。  この「光」を私はビッグバンだと思っていました。しかし、これは間違えでした。神はご自分という命にコマンドし、「光」を「在るもの」とされました。この「在るもの」という言葉は重要で、モーゼがみた「燃えるシバの木」、そしてキリストが言った「エゴ・エイミー」がイコールでつながるのです。 モーゼに「名」を尋ねられて、神は「在って在るもの」とこたえました。キリストが言ったエゴ・エイミー、これはギリシャ語で、これも英語に訳すと「I am "I am"」つまり「在って在るもの」となるのです。  つまり、キリストはマリアの胎を通して初めて存在するようになったのではなく、創造の時に神からにじみ出て存在するようになった、ということなんです。  ただ、人として私達と同じように、朽ちる肉体をもって地上に生まれでたのが、乙女マリアの出産からである、というだけです。  さて、「神は光をみて善しとされた。」というところで、善悪の「善」という字が使われています。  ヘブライ語では、「ヴァッヤール・エロヒーム・キ・トーヴ」と書かれています。そのまま訳すと「見た、神は、満足する」となるでしょうか。  しかも、私を悩ませたのは「光在れ」の「在れ」です。命令形ではなく、未完了の指示。難解でした。そこで尾山令二先生の訳に出会いました。これが原語に一番近い妙訳だと思います。「神は一声『光よ出てこい』と仰せになると、光は出...