安息日礼拝 vol 21 2020 Mar 09 キャストする
さて、ついに、問題の六日目に来てしまいました。
創造の業の最終日となるこの六日目、神はついに、創造の集大成、冠として、「ヒト」を創造されます。
しかしながら、アダムとイヴァの創造ではありません。
KJJKでは、いくつかの理由から、この第一章26節~31節にある「ヒト」と第二章4節~17節にある「ヒト」の創造は別のものだと確信しております。
べレシート(創世記)01:24~31
次に神は仰せになった、「地にはあらゆる種類の生き物、すなわちあらゆる種類の家畜、地を這うもの、野の獣を生み出せ」。するとその通りになった。神は野のあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、地を這うあらゆる種類のものをすべて造られた。神はそれを見て善しとされた。
次に神は仰せになった、「われわれにかたどり、われわれに似せて人を作ろう。そして人に、海の魚、空の鳥、家畜、野のすべての獣、地を這うすべてのものを治めさせよう。」
神はご自分にかたどって人を創造された。
人をご自分にかたどって創造され、男と女に創造された。神は彼らを祝福して仰せになった、
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を治めよ。」
また神は仰せになった、「見よ、私はお前たちの食べ物として、全地の種のあるすべての草と、種のある実を結ぶすべての木を与える。そして地のあらゆる獣、空の鳥、地を這うあらゆるもので、およそ命あるものには、それぞれの食べ物として青草を与える。」するとそのとおりになった。神はご自分のお造りになったものをご覧になった。それは極めて善かった。そして夕べとなり、六日目が過ぎた。
まずは、第二章がないものとして、この第一章の「ヒト」の創造をしっかり見ていきたいと思います。
この日に至るまで、「地」物質世界に生き物は何も創造されていませんが、第三日目に神は「種ある実を結ぶ木」「草木」という植物を作っています。しかしながら、そちらにしても、この三日目と六日目に出てくる「地」も、私たちが住んでいる「アレツ」ではなく、「エレツ」です。つまり、この地球上のことではありません。
私としては、「どこか別のところ」という解釈よりも、「べつの価値観」という見方をしたほうが良いのでは、と感じています。「次元」という言い方でも良いと思います。
やはり、この時にあっても、神は「アレツ」つまり、地球には着目しておられません。もちろん、相手はなんてったって、神ですから、同時進行で、高次元の「エレツ」の創造と並行して、四日目に作った地球という天体という物質の創造プロジェクトも進めておられたのは確かです。
しかしながら、ここでようやく物質世界に、生き物が創造されますが、それを地球上のこととは決して思わないようにしていただきたいのです。
ヘブライ語の聖書を見てみましょう。
神は言われた「エレツはその種類にしたがって生きている霊魂を生み出すように。草食動物と、虫やトカゲなどの生き物、物質界の生き物をその種類に従って。」
相変わらず、何を言っているのか、ヘブライ語でも、これだけでは意味不明です。しかし今日の人の創造物語によって、すべてがご理解いただけると思います。エノク書にははっきり、天界にある「エレツ」(別次元にある可視世界。「ふるさと」地上を表す「アレツ」とは別)という物質世界にできたものが、写し絵のように地球上にもあるのだと、書いてあります。
私は、この「生きた霊魂」という言葉に着目しました。これは「生態」のことなんじゃないかなと思います。「ライフ・プログラム」です。エレツ(高次元の物質界)では、様々な動物の「生態プログラム」が設けられ、この地球という物質世界では、それらのアバターが「キャスト」されているんだな、と思います。
さて、いよいよ本題に参りましょう。
「ヒト」です。
「かたどって」という言葉に着目してください。
神は常に、一人称複数形です。これをにわかに真似して、ローマ教皇も自分のことを「我々」と言います。現教皇は「悔い改め」と「回帰」の魂の塊ですから、たまに伝統を無視して「単数形」で話されたりしますね。
神の「型」とはなんでしょうか?それは、当然「父」「子」「霊」です。「はじめに」よりも前に存在した「父」という神はご自分自身を「父」として存在せしめ、さらに、「子」、「霊」としても存在されるようになったのです。これが三位一体の正体です。神ご自身の三種の現実(実に現れる)です。この三位が互いにいつくしみあい、一体であり、かつ独立している、これが神の型。です。この聖書箇所では型という言葉に「ツェレム」という言葉が使われています。
「我々のツェレム」にかたどって、「造ろう」とおっしゃったのです。
このツェレムは何かというと、実は鋳造に使う型なのです。この型に溶けた金属を流し込み、全く同じ立体を作る方法です。 こういう製造方法を英語では「キャスト」というのです。
私はIT人間なので、毎日この機能を使いますが、皆さんは携帯端末の「キャスト」機能をご存じでしょうか? Youtube や Netflix、あるいは音楽アプリなどで視聴しているものを、テレビなど大きな画面で再生することを「キャスト」と言います。
神は、三次元世界の植物や、動物などの物質を、高次元世界の物質を創造してからそれを、三次元にキャストなさいました。しかし、この「六日目のヒト」だけは、高次元上に残して、ご自身をキャストされたのです。
「父」とは「魂」のことです。「聖霊」とは「精神」のことです。「子」とは「肉体」のことです。神は、ご自分と同じく魂、精神、肉体という三要素の型をもつ存在をおつくりになったのです。
そして、ここが驚くべき事実です。男も女も、ご自分にかたどってキャストしたのです。たしかに最初に男をつくり、それから女をつくりましたが、ヘブライ語の聖書を見ていると、「こうして神はご自分の姿に象ってヒトを作った。ヒトを男と女に作った」と書いてあります。このことから、女も神に似せて作られているので、神は男性、女性どちらの性も持ち合わせているという事実がわかります。
神はこの「男」と「女」両方に「統治命令」をしています。ヘブライ語を見てみると、例えば「海の魚」、「空の鳥」、「地の生き物」と、その統治範囲が生命体に限定され、その生命体が置かれている「場所」ではないことがわかります。「魚のいる海」、「鳥のいる空」「生き物がいる地」ではないのです。それらの「場」「空間」の統治権は、相変わらず神にあるのです。人が統治を命じられたのはそれらの空間に「生きる」生命体です。
この「男」と「女」はアダムとイヴァのことではありません。
当然違うのです。
そのことを、ここで、2章を前倒しして論証いたしますが、まず、混同されたのも仕方ないな、という譲歩部分からお話しいたしますが、この一章ででてくる「男」にも、二章で造られた「男」と同じ言葉が使われ、のちに二章の「男」はそれが自分の「名前」となるのです。「アダーム」です。確かに、1章でも「アダーム」が造られたと書いてあるので、旧約聖書しか読んでいない人には、第二章は第一章の拡大版と思われるでしょう。たしかにそうなのですが、拡大している部分が違うのです。
エノク書で書いてあることを端的に申し上げます。エノク書には「創造の六日目のアダームと、エデンの園で造られたアダームは別物である。」もっというと「アダームの最初の妻はイヴァではない」とも書いてあります。
エノク書云々はさておき、われわれが、はっきりと創造六日目のアダームと、エデンのアダームが別人であると認知する最大の根拠は、神が祝福し「極めて善かった」と言っているからです。ただ「善かった」のではありません「極めて善かった」のです。
二日目に創造された天使たちは、堕落したたった一人が故にこの「善かった」という太鼓判を頂けなかったのです。アダムとイヴァも堕落するのです。自分たちの意志で堕落を選ぶんです。当然、神は二日目に創造された「天使たち」のこともそうだったように、アダムとイヴァが堕落することをご存じです。彼らに「善かった」のハンコをおすわけがないのです。
比べてみれば、もっと根拠はあります。
まずは第二章の5節から7節をお読みします。
神である主が地と天を造られたとき、まだ地には野の木が一本もなく、また野の草も一本も生えていなかった。神である主が地に雨を降らされず、土を耕す人もいなかったからである。しかし水が地から湧き出て、土の面をあまねく潤していた。神である主は土の塵で人の形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きる者となった。
このシリーズの最初からずっとこのメッセージを聞いてくださっている方は、すでにこの部分を今まで同じようには読めないはずです。「あれ?」という疑問だらけなんです。
アダムとイヴァの物語は六日目ではなく、創造の二日目の出来事です。そうすると、すべての辻褄が合うのです。
まず、2章5節が変です。神は三日目にちゃんと、草木を創造されました。しかし、エデンの園が設けられるこの空間にはないのです。
そして、六日目のヒトは、神のツェレム(型)によってキャストされましたが、エデンのアダムは土をこねて形づくられました。製造方法が違います。
六日目のヒトは、はじめから生きる霊魂でしたが、エデンのアダムは、神の「息吹」がないと生命のないただのお人形でした。
六日目のヒトと、エデンのアダムの違いははっきりしています。
神に似せて作られたのは、「六日目のヒト」です。地を治めよと命令されたのも「六日目のヒト」です。「産めよ増えよ」と祝福という形の命令をされたのも、「六日目のヒト」です。 エデンのアダームは「地を耕す人」がいなかったから造られたのです。地を治める者としては造られていません。その代わり、アダームは神の完全なる保護を受けています。「喜び」という名の「エデンの園」を居住地として与えられ、必要なものはすべて与えられています。神はアダームも「喜び合う対象」としてお造りになったという紛れもない証拠です。
そして、ここが肝心です。原罪をおかしたのは、エデンのアダムであり、「六日目のヒト」ではありません。しかし、ここで、この問題はおいておきたいと思います。
ひとつだけ、心に覚えていただきたいのは、「アダム」は神の息吹(ネフェーシュ:聖霊のこと)がなければ、霊的生命体ではなくなるのです。そして、原罪故に神は、アダムの子孫が、ネフェーシュを受けない限り「塵」に戻り、蛇に喰われて果てるようお定めになりました(創世記2:14) ネフェーシュを受け取るには、イェシュアが必要です(ヨハネ20:22)
アダームとイヴァは二日目、天使たちと同時に造られたのです。だから、神は「善しとした」というコメントを残されなかったのです。アダムは二日目に造られたから、彼の創造時点では、草木などの植物も獣もいなかったのです。そして、彼らに「食べ物として与える」と二日目に宣言したので、神は三日目に植物をお造りになっただけではなく、彼らの堕落を知っておられたので、「生命の木」をお造りになったのです。「生命の木」は救い主イェシュアの高次元の本体です。
神が創造された「ヒト」がアダムとイヴァだけでないことは、普通に考えれば明らかなのです。
原罪を犯してエデンを追われたアダムとイヴァの間にはカインとアベルという兄弟が生まれます。人類最初の殺人の当事者として有名な二人です。アベルを殺した罪で、カインはノドの地に追いやられますが、いきなりその直後、妻という存在が登場します。
婚姻という儀式は存在していませんでしたので、最初に交わった時が彼らの婚姻です。つまり、彼は自分の妻にノデの地で出会っているのです。
女の子はいても書き記さないのが習わしですから、もしかしたら、アダムとイヴァは女の子も生んでいて、妹の一人と結婚していたかも、と思われるかもしれません。ということは結婚したのは、殺人という罪を犯した前だということです。もしそうなら、追放された夫と共に妻も追放されたことでしょう。しかし、そうなると、この4章17節「カインは妻を知った」の記述がわざわざここで登場するのがおかしいです。
女子は親元を離れないままお嫁に行くものです。つまり、カインの妻は、アダムとイヴァの血がつながっていない「ヒト」ということです。
ここからは大胆にも、炎上を覚悟で「私の創世記」として語らせていただきます。
創世記をどう解釈しようが、この世のすべては神によって創造され、神と無関係の人間はいないということは、各自お覚えいただければよいと思います。そして神の「肉体」としてこの世にお生まれになったイェシュアを必要としていない「六日目のヒト」の子孫がいるのかどうか、それも、NOです。イェシュアは神ご自身です。その神と共に生きないならば、たとえ「六日目のヒト」の子孫であっても、この地球にある限り、地獄にいるのですから、救いはありません。
そうです、みなさん、私たちがいるこの「アレツ」こそが地獄なのです。楽園で神と永遠の宴にあるはずの私たち、それが「六日目のヒト」の子孫であろうが「アダム」の子孫であろうが、この地球という星で生きている時点で、地獄に生きているのです。
「六日目のヒト」は、この世のリーダーとなるべき遺伝子を組み込まれた「右側人間」です。統治し、守る能力を与えられた「人種」です。「アダムの子孫」は耕し、額に汗しながらも、神の完全保護をうけて喜びの中に生きることを定められた「左側人間」です。働くことそのものが喜びとなるようプログラムされた「人種」です。神はどちらも、愛しておられ、必要だからお造りになったのです。右側は命をかけて、左の人々を守ります。なぜなら、神がアダムにお約束なさった恩寵は、「六日目のヒト」を通して与えられるからです。左側は右側の人々を、笑顔で支えなくてはなりません。彼らが倒れたとき、左側も倒れるのです。世の中のバランスが崩れるのは、右側の人間が「守る」ことを忘れて横暴になり、左側が労働することの喜びを忘れて、右側のように生きようとする時です。
原罪とは、アダムが「善悪を知る木」から実を食べたことに起因しますが、それと同じことが幾度となく起き、世界は均衡を失うのです。今の世の中もそうです。だれもが小さな幸せでは飽き足らず、過剰な権利を主張し始め、雇用機会を創出する人間の力を吸い取ってしまいます。
マスク事件もそうです。コロナウィルスに起因して、日本は第二のオイルショックを経験しました。実のところ、これは必然ではありません。日本人がこの異常事態を選んで招いたのです。こんな世界的な異常事態です。マスクは政府による配給制にするべきでした。しかしながら、政府が体制を整えるのも遅かったですが、主権者たる国民が「我が身だけは救わん」と行列することのほうが俄然早かったのです。トイレットペーパーにいたっては愚の骨頂です。とんだ愚民ぶりを世界にさらけ出したのです。原罪をおかし、堕落した「二日目のヒト」の霊がはっきり見えます。だから神は「善し」となさらなかったのです。
さて、私たちは鳥も魚も食べますがその霊性を体に取り入れて、霊的にも生きていかなくてはいけないのです。結論だけを言いますが、「鳥」は「究極の父性」の霊であり、「魚」は「究極の母性」の霊です。これらの肉だけを摂取するのではなく、霊を摂取して「エデン」を私たちの生命世界のなかに、取り戻さなくてはいけないのです。エデンとは「歓喜」という意味です。アッカド語において「エデン」は平な地という意味です。神はこの地を去るときに、再臨の際には「山の上に立つ」と宣言なさいました。
私たちは平地には生きられないものです。問題を抱え、憂い、嘆き、迷いの森で悶々と悩み悲しむのです。しかし、そんな「問題」の山にこそ、神はおり立ってくださるのです。そして蛇の跋扈する鬱蒼とした暗い山をかかとで踏みつぶして、平らな地を私たちに与えてくださるのです。それがエデンへの帰還です。もちろん、この三次元の地球というのは、高次元世界のアバターですから、三次元的にも、「エデンへの帰還」、つまりイスラエルの復活とイスラエルの民の帰還が実現します。これはすでに、誰の目にも明らかに始まっています。預言されたとおり、50年前イスラエルは国として甦り、アメリカ最後の大統領「トランプ(トランペット)」氏によって、エルサレムは大きな声で首都として宣言されました。
最後に、この世にはもはや、「完全なる二日目のヒト」もいなければ「完全なる六日目のヒト」も存在しません。すでに混血に混血を重ねて、ノアの時代までには、純血は居なくなったのです。私達は誰しも、「二日目の血」も「六日目の血」も必ず持っているのです。どちらかが強い、弱い、あるいは、両方同等、と程度の差があるだけです。そしてそれで良いのです。「二日目」と「六日目」は、上下の差ではなく、あくまでも左と右の差です。しかし、罪への反応は、神の型(ツェレム)の第三位である「聖霊」によってもたらされる、理性で制御しなくてはいけないのです。そして、人間的な「理性」ではなく、神自身たる聖霊による「理性」でなければ、制御などできないのです。
神は間もなく、全世界の王としてお戻りになります。皆さま、私たちイスラエルの民が「民族」としてエデンに帰還するには、まず個人個人の「エデン帰還」が必要です。
よく、神の選民思想を批判する人がいます。選ばれていない人たちにしたら、都合の悪い話だからだと思います。自分たちは選ばれていないのですから、受け入れられる話ではありません。しかし、このYoutubeを聞いている時点で、選ばれているのです。神は御選びになった民には、真理を耳にするように運命づけられるのです。
右の子も、左の子も、みな、それぞれの「分」のなかでその命を全うしなくてはならないのです。
創造の業の最終日となるこの六日目、神はついに、創造の集大成、冠として、「ヒト」を創造されます。
しかしながら、アダムとイヴァの創造ではありません。
KJJKでは、いくつかの理由から、この第一章26節~31節にある「ヒト」と第二章4節~17節にある「ヒト」の創造は別のものだと確信しております。
べレシート(創世記)01:24~31
次に神は仰せになった、「地にはあらゆる種類の生き物、すなわちあらゆる種類の家畜、地を這うもの、野の獣を生み出せ」。するとその通りになった。神は野のあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、地を這うあらゆる種類のものをすべて造られた。神はそれを見て善しとされた。
次に神は仰せになった、「われわれにかたどり、われわれに似せて人を作ろう。そして人に、海の魚、空の鳥、家畜、野のすべての獣、地を這うすべてのものを治めさせよう。」
神はご自分にかたどって人を創造された。
人をご自分にかたどって創造され、男と女に創造された。神は彼らを祝福して仰せになった、
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を治めよ。」
また神は仰せになった、「見よ、私はお前たちの食べ物として、全地の種のあるすべての草と、種のある実を結ぶすべての木を与える。そして地のあらゆる獣、空の鳥、地を這うあらゆるもので、およそ命あるものには、それぞれの食べ物として青草を与える。」するとそのとおりになった。神はご自分のお造りになったものをご覧になった。それは極めて善かった。そして夕べとなり、六日目が過ぎた。
まずは、第二章がないものとして、この第一章の「ヒト」の創造をしっかり見ていきたいと思います。
この日に至るまで、「地」物質世界に生き物は何も創造されていませんが、第三日目に神は「種ある実を結ぶ木」「草木」という植物を作っています。しかしながら、そちらにしても、この三日目と六日目に出てくる「地」も、私たちが住んでいる「アレツ」ではなく、「エレツ」です。つまり、この地球上のことではありません。
私としては、「どこか別のところ」という解釈よりも、「べつの価値観」という見方をしたほうが良いのでは、と感じています。「次元」という言い方でも良いと思います。
やはり、この時にあっても、神は「アレツ」つまり、地球には着目しておられません。もちろん、相手はなんてったって、神ですから、同時進行で、高次元の「エレツ」の創造と並行して、四日目に作った地球という天体という物質の創造プロジェクトも進めておられたのは確かです。
しかしながら、ここでようやく物質世界に、生き物が創造されますが、それを地球上のこととは決して思わないようにしていただきたいのです。
ヘブライ語の聖書を見てみましょう。
神は言われた「エレツはその種類にしたがって生きている霊魂を生み出すように。草食動物と、虫やトカゲなどの生き物、物質界の生き物をその種類に従って。」
相変わらず、何を言っているのか、ヘブライ語でも、これだけでは意味不明です。しかし今日の人の創造物語によって、すべてがご理解いただけると思います。エノク書にははっきり、天界にある「エレツ」(別次元にある可視世界。「ふるさと」地上を表す「アレツ」とは別)という物質世界にできたものが、写し絵のように地球上にもあるのだと、書いてあります。
私は、この「生きた霊魂」という言葉に着目しました。これは「生態」のことなんじゃないかなと思います。「ライフ・プログラム」です。エレツ(高次元の物質界)では、様々な動物の「生態プログラム」が設けられ、この地球という物質世界では、それらのアバターが「キャスト」されているんだな、と思います。
さて、いよいよ本題に参りましょう。
「ヒト」です。
「かたどって」という言葉に着目してください。
神は常に、一人称複数形です。これをにわかに真似して、ローマ教皇も自分のことを「我々」と言います。現教皇は「悔い改め」と「回帰」の魂の塊ですから、たまに伝統を無視して「単数形」で話されたりしますね。
神の「型」とはなんでしょうか?それは、当然「父」「子」「霊」です。「はじめに」よりも前に存在した「父」という神はご自分自身を「父」として存在せしめ、さらに、「子」、「霊」としても存在されるようになったのです。これが三位一体の正体です。神ご自身の三種の現実(実に現れる)です。この三位が互いにいつくしみあい、一体であり、かつ独立している、これが神の型。です。この聖書箇所では型という言葉に「ツェレム」という言葉が使われています。
「我々のツェレム」にかたどって、「造ろう」とおっしゃったのです。
このツェレムは何かというと、実は鋳造に使う型なのです。この型に溶けた金属を流し込み、全く同じ立体を作る方法です。 こういう製造方法を英語では「キャスト」というのです。
私はIT人間なので、毎日この機能を使いますが、皆さんは携帯端末の「キャスト」機能をご存じでしょうか? Youtube や Netflix、あるいは音楽アプリなどで視聴しているものを、テレビなど大きな画面で再生することを「キャスト」と言います。
神は、三次元世界の植物や、動物などの物質を、高次元世界の物質を創造してからそれを、三次元にキャストなさいました。しかし、この「六日目のヒト」だけは、高次元上に残して、ご自身をキャストされたのです。
「父」とは「魂」のことです。「聖霊」とは「精神」のことです。「子」とは「肉体」のことです。神は、ご自分と同じく魂、精神、肉体という三要素の型をもつ存在をおつくりになったのです。
そして、ここが驚くべき事実です。男も女も、ご自分にかたどってキャストしたのです。たしかに最初に男をつくり、それから女をつくりましたが、ヘブライ語の聖書を見ていると、「こうして神はご自分の姿に象ってヒトを作った。ヒトを男と女に作った」と書いてあります。このことから、女も神に似せて作られているので、神は男性、女性どちらの性も持ち合わせているという事実がわかります。
神はこの「男」と「女」両方に「統治命令」をしています。ヘブライ語を見てみると、例えば「海の魚」、「空の鳥」、「地の生き物」と、その統治範囲が生命体に限定され、その生命体が置かれている「場所」ではないことがわかります。「魚のいる海」、「鳥のいる空」「生き物がいる地」ではないのです。それらの「場」「空間」の統治権は、相変わらず神にあるのです。人が統治を命じられたのはそれらの空間に「生きる」生命体です。
この「男」と「女」はアダムとイヴァのことではありません。
当然違うのです。
そのことを、ここで、2章を前倒しして論証いたしますが、まず、混同されたのも仕方ないな、という譲歩部分からお話しいたしますが、この一章ででてくる「男」にも、二章で造られた「男」と同じ言葉が使われ、のちに二章の「男」はそれが自分の「名前」となるのです。「アダーム」です。確かに、1章でも「アダーム」が造られたと書いてあるので、旧約聖書しか読んでいない人には、第二章は第一章の拡大版と思われるでしょう。たしかにそうなのですが、拡大している部分が違うのです。
エノク書で書いてあることを端的に申し上げます。エノク書には「創造の六日目のアダームと、エデンの園で造られたアダームは別物である。」もっというと「アダームの最初の妻はイヴァではない」とも書いてあります。
エノク書云々はさておき、われわれが、はっきりと創造六日目のアダームと、エデンのアダームが別人であると認知する最大の根拠は、神が祝福し「極めて善かった」と言っているからです。ただ「善かった」のではありません「極めて善かった」のです。
二日目に創造された天使たちは、堕落したたった一人が故にこの「善かった」という太鼓判を頂けなかったのです。アダムとイヴァも堕落するのです。自分たちの意志で堕落を選ぶんです。当然、神は二日目に創造された「天使たち」のこともそうだったように、アダムとイヴァが堕落することをご存じです。彼らに「善かった」のハンコをおすわけがないのです。
比べてみれば、もっと根拠はあります。
まずは第二章の5節から7節をお読みします。
神である主が地と天を造られたとき、まだ地には野の木が一本もなく、また野の草も一本も生えていなかった。神である主が地に雨を降らされず、土を耕す人もいなかったからである。しかし水が地から湧き出て、土の面をあまねく潤していた。神である主は土の塵で人の形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きる者となった。
このシリーズの最初からずっとこのメッセージを聞いてくださっている方は、すでにこの部分を今まで同じようには読めないはずです。「あれ?」という疑問だらけなんです。
アダムとイヴァの物語は六日目ではなく、創造の二日目の出来事です。そうすると、すべての辻褄が合うのです。
まず、2章5節が変です。神は三日目にちゃんと、草木を創造されました。しかし、エデンの園が設けられるこの空間にはないのです。
そして、六日目のヒトは、神のツェレム(型)によってキャストされましたが、エデンのアダムは土をこねて形づくられました。製造方法が違います。
六日目のヒトは、はじめから生きる霊魂でしたが、エデンのアダムは、神の「息吹」がないと生命のないただのお人形でした。
六日目のヒトと、エデンのアダムの違いははっきりしています。
神に似せて作られたのは、「六日目のヒト」です。地を治めよと命令されたのも「六日目のヒト」です。「産めよ増えよ」と祝福という形の命令をされたのも、「六日目のヒト」です。 エデンのアダームは「地を耕す人」がいなかったから造られたのです。地を治める者としては造られていません。その代わり、アダームは神の完全なる保護を受けています。「喜び」という名の「エデンの園」を居住地として与えられ、必要なものはすべて与えられています。神はアダームも「喜び合う対象」としてお造りになったという紛れもない証拠です。
そして、ここが肝心です。原罪をおかしたのは、エデンのアダムであり、「六日目のヒト」ではありません。しかし、ここで、この問題はおいておきたいと思います。
ひとつだけ、心に覚えていただきたいのは、「アダム」は神の息吹(ネフェーシュ:聖霊のこと)がなければ、霊的生命体ではなくなるのです。そして、原罪故に神は、アダムの子孫が、ネフェーシュを受けない限り「塵」に戻り、蛇に喰われて果てるようお定めになりました(創世記2:14) ネフェーシュを受け取るには、イェシュアが必要です(ヨハネ20:22)
アダームとイヴァは二日目、天使たちと同時に造られたのです。だから、神は「善しとした」というコメントを残されなかったのです。アダムは二日目に造られたから、彼の創造時点では、草木などの植物も獣もいなかったのです。そして、彼らに「食べ物として与える」と二日目に宣言したので、神は三日目に植物をお造りになっただけではなく、彼らの堕落を知っておられたので、「生命の木」をお造りになったのです。「生命の木」は救い主イェシュアの高次元の本体です。
神が創造された「ヒト」がアダムとイヴァだけでないことは、普通に考えれば明らかなのです。
原罪を犯してエデンを追われたアダムとイヴァの間にはカインとアベルという兄弟が生まれます。人類最初の殺人の当事者として有名な二人です。アベルを殺した罪で、カインはノドの地に追いやられますが、いきなりその直後、妻という存在が登場します。
婚姻という儀式は存在していませんでしたので、最初に交わった時が彼らの婚姻です。つまり、彼は自分の妻にノデの地で出会っているのです。
女の子はいても書き記さないのが習わしですから、もしかしたら、アダムとイヴァは女の子も生んでいて、妹の一人と結婚していたかも、と思われるかもしれません。ということは結婚したのは、殺人という罪を犯した前だということです。もしそうなら、追放された夫と共に妻も追放されたことでしょう。しかし、そうなると、この4章17節「カインは妻を知った」の記述がわざわざここで登場するのがおかしいです。
女子は親元を離れないままお嫁に行くものです。つまり、カインの妻は、アダムとイヴァの血がつながっていない「ヒト」ということです。
ここからは大胆にも、炎上を覚悟で「私の創世記」として語らせていただきます。
創世記をどう解釈しようが、この世のすべては神によって創造され、神と無関係の人間はいないということは、各自お覚えいただければよいと思います。そして神の「肉体」としてこの世にお生まれになったイェシュアを必要としていない「六日目のヒト」の子孫がいるのかどうか、それも、NOです。イェシュアは神ご自身です。その神と共に生きないならば、たとえ「六日目のヒト」の子孫であっても、この地球にある限り、地獄にいるのですから、救いはありません。
そうです、みなさん、私たちがいるこの「アレツ」こそが地獄なのです。楽園で神と永遠の宴にあるはずの私たち、それが「六日目のヒト」の子孫であろうが「アダム」の子孫であろうが、この地球という星で生きている時点で、地獄に生きているのです。
「六日目のヒト」は、この世のリーダーとなるべき遺伝子を組み込まれた「右側人間」です。統治し、守る能力を与えられた「人種」です。「アダムの子孫」は耕し、額に汗しながらも、神の完全保護をうけて喜びの中に生きることを定められた「左側人間」です。働くことそのものが喜びとなるようプログラムされた「人種」です。神はどちらも、愛しておられ、必要だからお造りになったのです。右側は命をかけて、左の人々を守ります。なぜなら、神がアダムにお約束なさった恩寵は、「六日目のヒト」を通して与えられるからです。左側は右側の人々を、笑顔で支えなくてはなりません。彼らが倒れたとき、左側も倒れるのです。世の中のバランスが崩れるのは、右側の人間が「守る」ことを忘れて横暴になり、左側が労働することの喜びを忘れて、右側のように生きようとする時です。
原罪とは、アダムが「善悪を知る木」から実を食べたことに起因しますが、それと同じことが幾度となく起き、世界は均衡を失うのです。今の世の中もそうです。だれもが小さな幸せでは飽き足らず、過剰な権利を主張し始め、雇用機会を創出する人間の力を吸い取ってしまいます。
マスク事件もそうです。コロナウィルスに起因して、日本は第二のオイルショックを経験しました。実のところ、これは必然ではありません。日本人がこの異常事態を選んで招いたのです。こんな世界的な異常事態です。マスクは政府による配給制にするべきでした。しかしながら、政府が体制を整えるのも遅かったですが、主権者たる国民が「我が身だけは救わん」と行列することのほうが俄然早かったのです。トイレットペーパーにいたっては愚の骨頂です。とんだ愚民ぶりを世界にさらけ出したのです。原罪をおかし、堕落した「二日目のヒト」の霊がはっきり見えます。だから神は「善し」となさらなかったのです。
さて、私たちは鳥も魚も食べますがその霊性を体に取り入れて、霊的にも生きていかなくてはいけないのです。結論だけを言いますが、「鳥」は「究極の父性」の霊であり、「魚」は「究極の母性」の霊です。これらの肉だけを摂取するのではなく、霊を摂取して「エデン」を私たちの生命世界のなかに、取り戻さなくてはいけないのです。エデンとは「歓喜」という意味です。アッカド語において「エデン」は平な地という意味です。神はこの地を去るときに、再臨の際には「山の上に立つ」と宣言なさいました。
私たちは平地には生きられないものです。問題を抱え、憂い、嘆き、迷いの森で悶々と悩み悲しむのです。しかし、そんな「問題」の山にこそ、神はおり立ってくださるのです。そして蛇の跋扈する鬱蒼とした暗い山をかかとで踏みつぶして、平らな地を私たちに与えてくださるのです。それがエデンへの帰還です。もちろん、この三次元の地球というのは、高次元世界のアバターですから、三次元的にも、「エデンへの帰還」、つまりイスラエルの復活とイスラエルの民の帰還が実現します。これはすでに、誰の目にも明らかに始まっています。預言されたとおり、50年前イスラエルは国として甦り、アメリカ最後の大統領「トランプ(トランペット)」氏によって、エルサレムは大きな声で首都として宣言されました。
最後に、この世にはもはや、「完全なる二日目のヒト」もいなければ「完全なる六日目のヒト」も存在しません。すでに混血に混血を重ねて、ノアの時代までには、純血は居なくなったのです。私達は誰しも、「二日目の血」も「六日目の血」も必ず持っているのです。どちらかが強い、弱い、あるいは、両方同等、と程度の差があるだけです。そしてそれで良いのです。「二日目」と「六日目」は、上下の差ではなく、あくまでも左と右の差です。しかし、罪への反応は、神の型(ツェレム)の第三位である「聖霊」によってもたらされる、理性で制御しなくてはいけないのです。そして、人間的な「理性」ではなく、神自身たる聖霊による「理性」でなければ、制御などできないのです。
神は間もなく、全世界の王としてお戻りになります。皆さま、私たちイスラエルの民が「民族」としてエデンに帰還するには、まず個人個人の「エデン帰還」が必要です。
よく、神の選民思想を批判する人がいます。選ばれていない人たちにしたら、都合の悪い話だからだと思います。自分たちは選ばれていないのですから、受け入れられる話ではありません。しかし、このYoutubeを聞いている時点で、選ばれているのです。神は御選びになった民には、真理を耳にするように運命づけられるのです。
右の子も、左の子も、みな、それぞれの「分」のなかでその命を全うしなくてはならないのです。
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