安息日礼拝 vol.23 2020 MAR 23 「原罪」「女」と「へび」
本日は2020年3月23日、KJJK第23回の安息日礼拝へようこそおいでくださいました。
私には10歳の息子がおりまして、一人で育てているわけなのですが、子供のお友達のお母様がたを見ていると、危うくて頭を抱えてしまうことがあります。
去年のちょうど今頃、こういうお母様がいました。私の息子が行っている小学校は私学なのです、当然授業料が発生します。しかしながら、私も息子もこの学校が大好きです。先生が全員素晴らしいプロフェッショナルで、このクオリティーを維持するためなら、どのような貢献も惜しまない。そのように思っています。確かに厳しい規律がありますが、息子も私も聖霊の内住を受けておりますので、どのような善行も苦ではありません。タブーも規律も、私達の信仰生活を脅かさない限り、まったく問題ないのです。ある日、先程申し上げたお母様が先生に文句を言いに行ったのです。おっしゃりたいのは、規律が厳しすぎる、ということなのです。早い話、彼女のお子さんも、だらしなすぎて規律が守れず怒られるからだと思います。そこで、彼女は学校に話をしに行きました。「この学校は7年も経ってるのにキレイすぎる。私の兄はコロンビア大学。みんなノビノビしている。子供たちはノビノビ育つべき。なんでも壊せばいい。校長先生はお金持ちなんだから、校長先生が出せばいいし、私もお金は持っているから言ってくれれば、いつでも弁償する。」と、副校長に言ってきたそうです。
私は椅子から転げ落ちそうになりました。この方は中国、香港の方なので、後半部分「私はお金持ってるから、弁償はする」という言い方をなさいましたが、日本人のママたちはそういう言い方はしないでしょう。しかしながら、往々にして、現代のママという人種は「ノビノビ」という言葉を取り違えています。「自由と勝手」をとりちがえ、「アリノママとワガママ」を取り違えているのです。
実はこれこそ今日のテーマとしてお話する「原罪」から来ているひとつの「なれのはて」なのです。
今日は聖書をお読みするのではなく、「原罪」の物語を「事件ファイル」としてうけとって、当事者たちの言動を検証していきたいと思います。
皆様それぞれで、該当する聖書箇所をお読みいただけたらと思います。創世記3章1節から25節です。
楽園にいるアダムと、かれの助け手として造られた「女~イシャ~」がいます。この時、女はまだ名前を与えられていません。 女に話しかけるものがありました。「へび」と呼ばれる者です。
へびは尋ねます「『お前たちは、このエデンの園にあるどんな木の実も食べてはいけない』そんなふうに神は言ったのかい?」これは神の命令がどんなものだったかを確認しているのです。
女は応えます「そんなことないわ。園にあるどの木も食べていいの。ただ、神様はおっしゃったの『園の中央にある木の実は食べてはならない。触ってもいけない。お前達が死ぬといけないから。』って。」
しかし、へびは女に言いました。「いや、君たちは死んじゃったりしないよ。それを食べると、三位一体の神のように善悪を知って賢くなるのを、わかってるからそう言っているんだよ。」
女がその実を改めてみてみると、その実はとてもジューシーで美味しそうだし、賢くなるのは悪いことじゃないと思ったので食べてしまいました。
そして、夫にも、「ちょっと食べてみて」と女が言ったので、夫であるアダムも食べてしまいました。
ここまでを検証してみましょう。
まず、ここで悪役である「へび」が登場します。
このへびは、動物の蛇ではありません。
聖書の他のところを参照すれば、この「へび」の「象」(イメージ)が視えてきますし、イメージが視えると、当然その「型」がどのようなものなのかがわかります。
参考にしていただきたいのは、まず黙示録12:9、エゼキエル28:12~17、イザヤ14:12~15 予め言っておきますが、エゼキエルもイザヤもここで述べているのは「バビロニアの王」のことを、「へびと呼ばれた者」になぞって言っているだけなのですが、とにかく、これらからざっと整理してみますと、この「へび」という存在の正体は、「ヘイエル・ベンシェハー」(明けの明星)、後に、カトリックによって「ルシファー」と名付けられる天使です。
彼は本来「サマエル」「神の毒」という意味の名前がつけられました。二日目に創造された天使の一人です。姿がとても美しく、叡智に満ち、天使たちのなかで唯一、神の玉座の右に座すことが許された天使です。
この「サマエル」という名前と「サムエル記」のサムエルが似ているので、ドキッとされた方もいらっしゃるとおもいます。日本語で書くとにていますが、ヘブライ語では全然、違う文字ですのでご安心ください。
このサマエルがどうやって堕落したかは、実は伝承ばかりで諸説あり、カトリックがでっち上げた部分と、そうでない部分の区別がつきにくいです。なので、サマエルの転落劇について詳しく述べることはできませんが、天「不可視」の世界に属しているはずのサマエルが、エデンにいるので、すでに、なんかやらかして、転落したあとではあったことがわかります。あるいは、「鳥」という存在に属していて不可視の世界と可視の世界をいききすることを許されていた、とも考えられます。ただ一つはっきりいえるのは、神が、アダムとエヴァにしたことに対して、初めてサマエルを呪っておりますので、この時点では、とてもハンサムなイケ面天使であったわけです。とにかく、「明けの明星」と称されるほどに、サマエルは美しかったことだけはたしかなんです。
「女」にとってみれば、土塊から出来たアダムから培養されて出来た自分ですから、それに比べて、「明けの明星」の王子様はすごくイケてるように思えたでしょう。
この「女」を思い描く時に中学1年生くらいのまだ若いティーンエイジャーを思い浮かべてください。まだまだ未熟な少女にとって、イケてるお兄さんがどう見えるか・・・そんなお兄さんにちょっと背伸びして近づこうとする少女の姿は容易に想像できるのではないでしょうか?
ここで、黙示録などで用いられている「サタン」。これは「シャターン」というヘブライ語から来ていますが、これがまるで、単一の存在であるかのように思っておられる方多いと思います。「シャターン」は「逆らう者」という意味で、固有名詞ではないのです。神に逆らうもの、全てを指します。「人」とは限りません。神に背く気持ちそのものを言うのです。つまり、私達ひとりひとりが「サタン」を持っているということです。そのことにはあとで触れましょう。
とても大切なことがあります。
サタンは人間の勘違いを使いはするが、いつも正しいことを言う。ということです。
サマエルは、受肉した神である「イェホシュア」の「神」としての「ドライブ立ち上げ」に貢献しています。「荒野の誘惑」でイェホシュアに問答を仕掛けるのです。その時に、聖書の言葉を引用していますが、何一つ間違っていないのです。むしろ、彼はこの世の「まっとう」というマヤカシを作った存在ですから、当時のユダヤ社会における「常識」をふっかけて、イェホシュアを堕落させようとしています。「ふつうのユダヤ人でいようよ。そのほうが楽だよ」と。
あいつは今でもそういうマヤカシを私達に仕掛けています「ふつうのクリスチャンでいて、日曜日の礼拝通おうよ。」あるいは、逆に「奇跡とかばちっとできるスーパー・クリスチャンでいようよ。」と・・・日々私達を誘惑しているのです。
ともかく、いつものことですが、サマエルの言うことはいっつもいっつも、むしろ「まっとう」なんです。
ただ、人間が勘違いをしているのです。
彼は何一つ嘘をついていないんです。フラシスコ会訳の注釈には「神の言葉を否定している」とありますが、彼は「神の言葉を否定」したのではなく、単に「女」の勘違いを肯定しているのです。彼女の浅はかさを見抜き、そのスキを広げているだけですが、そのスキを作っているのは、むしろ「女」のほうです。
「園の木の実はどれも食べれないのか?」と尋ねる、「女」の答えと、神の命令の本文を見れば彼女の「浅はかさ」がもたらした「穴」がわかります。
フランシスコ会訳にてベレシート(創世記)2:16をおよみいたします。
神である主は人に命じて仰せになった、「お前は園にあるどの木を食べても良い。しかし、善悪を知る木の実は食べてはならない。それを食べると必ず死ぬ」
マタイ5:18で、キリストが「あなた方に言っておく。天地の続く限り、律法の一点一画も消え失せることなく、ことごとく実現するであろう。」と言っています。(聞く耳のある人は聞きなさい。)この一点一画というのは「ヨッドもダレド」もという言葉なのですが、これは書道文化を持つ日本人のほうがわかりやすい表現でしょう。表意文字では、一つの点、一つの線にいくつもの象意があります。ヘブライ語と日本語の大きな共通点の一つです。キリストがいう律法とは旧約聖書の律法、つまり「神の理」のことです。では「神の理」とはなんでしょう。万物を創造した「神の言葉」です。
私達は「神の言葉」をそのまま、ありのままに受け取らなくてはならないのです。「自分なりの解釈」「社会的な利便や都合に合わせた解釈」であってはならないのです。KJJKがヘブライ語で聖書を読み直し、新約聖書もヘブライ的視点で読み返すことを第一義としているのもそのためです。
「女」はどうでしょう?
「女」は「中央にある木」は食べてはいけないと、神がおっしゃったと言いました。
ベレシート2:9にはエデンの園の中央には二本の木があるとはっきり書かれています。女は中央の木両方とも食べてはならない、と言われたと言っていますが、そうなのでしょうか?
神が食べてはならないと言ったのは、「善悪を知る木」だけです。「生命の木」は食べてもよかったのです。
この生半可な理解をサマエルはちゃんと見抜いて、それを利用したのです。
その後のセリフをちゃんとみてください「それを食べると目が開いて、神のようになるのを知っているから」もちろん、ご存知です。そのことに何の問題もありません。
しかし、人間である「女」のほうがそれを、神が何らかの意地悪をしているだけで、目が開いて賢くなるのは、良いことなんだ。と勝手に解釈しているのです。
多くの人が、「原罪」を神の言いつけに背いたことである、と解釈していますが、そうではないのです。
「原罪」の正体は、この実を食べることで入ってきたものです。「善悪の判断の基準を自分に持ってくること」です。
言いつけに背いたことそのものは、単なる「躓き」です。躓きはたしかに、罪のきっかけになってしまうことが多いですが、神に近づく大きなチャンスでもあるのです。
神はパワハラの上司とは違います。言いつけに背くだけで、楽園を追放したりはしません。呪ったりはしません。腹いせの制裁などしないのです。
神は愛なのです。追放も呪いも、神は人間に必要だからそのようになさったのです。
ビビデバビデブー派は、ひたすら祈って、人間が末期のガンから蘇って、永遠に生き延びることを目指していますが、このように原罪をおかしたアダムと女が、「善悪を知る」ようになったあとで、「生命の木」を食べて神のように永遠に生きる者にならないように、エデンを追放されたことをどう思っているのでしょうか。ビビデバビデブー派は、この時の「女」と同じです。浅はかで、奇跡を行うという「スーパーヒーロイズム」(スーパーエロイズム)の誘惑に負けているだけです。
キリスト教会は「いい人」「善行を為す人」と呼ばれることにむしろ固執し、神の神秘を否定し、人間哲学、あるいは道徳的な教えにだけとどまろうとしています。これは、アダムが犯した罪です。無難な良い子であろうとしても、結局はアダムも自分で選んで木の実を食べるんです。「悪いのはあいつら」「俺らは正当」と言いますが、結局同じなのです。イケ面天使のサマエルから誘惑された女は、あるいみ「しかたない」ですが、アダムはどうでしょうか? 女から誘われるままに、つゆとも拒むことなく食べちゃっているのに、挙句の果て、「女」にだけでなく。神に責任転嫁しているのです。
明日は新月祭でして、明日からペサハ、過ぎ越しの祭の準備をさせていただきたいと思いますので、一ヶ月以上空いてしまうことになってしまいますが、それも神のお導きだと思います。アダムの反応の意味、そしてこの原罪がいつ起きたのか、さらに「善悪を知る木」の正体については、また今度に持ち越したいと思います。
今回は最後に「へび」という言葉の不思議をお話して終わりたいと思います。
ここで出てくる「へび」という言葉、その正体はイケ面天使でございましたが、この「へび」はヘブライ語で「ナハッシュ」という言葉です。これは「推測」するという動詞でもあり、魔法をかけるということです。同じ動詞が、十戒の第九戒「偽証するなかれ」に出てきました。偽証するというのはどういうことでしょう?「白を黒」と言い「黒を白」と言うことでしょう。善悪を決めるのは神の特権です。「善しとする」は神のコメントです。人間が自分の満足を基準に言うべきコメントではありません。これが原罪です。原罪がなにか。それは人間が神ではなく、自分たちの基準で善悪を判断することです。
原罪とは、へびの誘惑によって、人間の体の中に入ってくるのです。たとえ、食べ物が良いものであっても、食べる時の食器がバイキンだらけだったら、その食べ物も毒されて害をなすものとなります。
へびの本名は「サマエル」、「神の毒」なのです。
そして、忘れてはならないのは、神はケチでも意地悪でもないのです。「食べてはならない」ものをなんの意味もなくお造りにはならないのです。そこには神が示そうとした「生き方」があります。そして順序があるのです。人間は、その順序という善悪を、ここで自分たちで決めるものにしてしまったのです。図らずも、そんな大きな責任を、誘惑に負けたがゆえに背負ってしまった。原罪のみならず、神に犯した罪によって傷つくのは、神ではありません。私達人間自身です。
私には10歳の息子がおりまして、一人で育てているわけなのですが、子供のお友達のお母様がたを見ていると、危うくて頭を抱えてしまうことがあります。
去年のちょうど今頃、こういうお母様がいました。私の息子が行っている小学校は私学なのです、当然授業料が発生します。しかしながら、私も息子もこの学校が大好きです。先生が全員素晴らしいプロフェッショナルで、このクオリティーを維持するためなら、どのような貢献も惜しまない。そのように思っています。確かに厳しい規律がありますが、息子も私も聖霊の内住を受けておりますので、どのような善行も苦ではありません。タブーも規律も、私達の信仰生活を脅かさない限り、まったく問題ないのです。ある日、先程申し上げたお母様が先生に文句を言いに行ったのです。おっしゃりたいのは、規律が厳しすぎる、ということなのです。早い話、彼女のお子さんも、だらしなすぎて規律が守れず怒られるからだと思います。そこで、彼女は学校に話をしに行きました。「この学校は7年も経ってるのにキレイすぎる。私の兄はコロンビア大学。みんなノビノビしている。子供たちはノビノビ育つべき。なんでも壊せばいい。校長先生はお金持ちなんだから、校長先生が出せばいいし、私もお金は持っているから言ってくれれば、いつでも弁償する。」と、副校長に言ってきたそうです。
私は椅子から転げ落ちそうになりました。この方は中国、香港の方なので、後半部分「私はお金持ってるから、弁償はする」という言い方をなさいましたが、日本人のママたちはそういう言い方はしないでしょう。しかしながら、往々にして、現代のママという人種は「ノビノビ」という言葉を取り違えています。「自由と勝手」をとりちがえ、「アリノママとワガママ」を取り違えているのです。
実はこれこそ今日のテーマとしてお話する「原罪」から来ているひとつの「なれのはて」なのです。
今日は聖書をお読みするのではなく、「原罪」の物語を「事件ファイル」としてうけとって、当事者たちの言動を検証していきたいと思います。
皆様それぞれで、該当する聖書箇所をお読みいただけたらと思います。創世記3章1節から25節です。
楽園にいるアダムと、かれの助け手として造られた「女~イシャ~」がいます。この時、女はまだ名前を与えられていません。 女に話しかけるものがありました。「へび」と呼ばれる者です。
へびは尋ねます「『お前たちは、このエデンの園にあるどんな木の実も食べてはいけない』そんなふうに神は言ったのかい?」これは神の命令がどんなものだったかを確認しているのです。
女は応えます「そんなことないわ。園にあるどの木も食べていいの。ただ、神様はおっしゃったの『園の中央にある木の実は食べてはならない。触ってもいけない。お前達が死ぬといけないから。』って。」
しかし、へびは女に言いました。「いや、君たちは死んじゃったりしないよ。それを食べると、三位一体の神のように善悪を知って賢くなるのを、わかってるからそう言っているんだよ。」
女がその実を改めてみてみると、その実はとてもジューシーで美味しそうだし、賢くなるのは悪いことじゃないと思ったので食べてしまいました。
そして、夫にも、「ちょっと食べてみて」と女が言ったので、夫であるアダムも食べてしまいました。
ここまでを検証してみましょう。
まず、ここで悪役である「へび」が登場します。
このへびは、動物の蛇ではありません。
聖書の他のところを参照すれば、この「へび」の「象」(イメージ)が視えてきますし、イメージが視えると、当然その「型」がどのようなものなのかがわかります。
参考にしていただきたいのは、まず黙示録12:9、エゼキエル28:12~17、イザヤ14:12~15 予め言っておきますが、エゼキエルもイザヤもここで述べているのは「バビロニアの王」のことを、「へびと呼ばれた者」になぞって言っているだけなのですが、とにかく、これらからざっと整理してみますと、この「へび」という存在の正体は、「ヘイエル・ベンシェハー」(明けの明星)、後に、カトリックによって「ルシファー」と名付けられる天使です。
彼は本来「サマエル」「神の毒」という意味の名前がつけられました。二日目に創造された天使の一人です。姿がとても美しく、叡智に満ち、天使たちのなかで唯一、神の玉座の右に座すことが許された天使です。
この「サマエル」という名前と「サムエル記」のサムエルが似ているので、ドキッとされた方もいらっしゃるとおもいます。日本語で書くとにていますが、ヘブライ語では全然、違う文字ですのでご安心ください。
このサマエルがどうやって堕落したかは、実は伝承ばかりで諸説あり、カトリックがでっち上げた部分と、そうでない部分の区別がつきにくいです。なので、サマエルの転落劇について詳しく述べることはできませんが、天「不可視」の世界に属しているはずのサマエルが、エデンにいるので、すでに、なんかやらかして、転落したあとではあったことがわかります。あるいは、「鳥」という存在に属していて不可視の世界と可視の世界をいききすることを許されていた、とも考えられます。ただ一つはっきりいえるのは、神が、アダムとエヴァにしたことに対して、初めてサマエルを呪っておりますので、この時点では、とてもハンサムなイケ面天使であったわけです。とにかく、「明けの明星」と称されるほどに、サマエルは美しかったことだけはたしかなんです。
「女」にとってみれば、土塊から出来たアダムから培養されて出来た自分ですから、それに比べて、「明けの明星」の王子様はすごくイケてるように思えたでしょう。
この「女」を思い描く時に中学1年生くらいのまだ若いティーンエイジャーを思い浮かべてください。まだまだ未熟な少女にとって、イケてるお兄さんがどう見えるか・・・そんなお兄さんにちょっと背伸びして近づこうとする少女の姿は容易に想像できるのではないでしょうか?
ここで、黙示録などで用いられている「サタン」。これは「シャターン」というヘブライ語から来ていますが、これがまるで、単一の存在であるかのように思っておられる方多いと思います。「シャターン」は「逆らう者」という意味で、固有名詞ではないのです。神に逆らうもの、全てを指します。「人」とは限りません。神に背く気持ちそのものを言うのです。つまり、私達ひとりひとりが「サタン」を持っているということです。そのことにはあとで触れましょう。
とても大切なことがあります。
サタンは人間の勘違いを使いはするが、いつも正しいことを言う。ということです。
サマエルは、受肉した神である「イェホシュア」の「神」としての「ドライブ立ち上げ」に貢献しています。「荒野の誘惑」でイェホシュアに問答を仕掛けるのです。その時に、聖書の言葉を引用していますが、何一つ間違っていないのです。むしろ、彼はこの世の「まっとう」というマヤカシを作った存在ですから、当時のユダヤ社会における「常識」をふっかけて、イェホシュアを堕落させようとしています。「ふつうのユダヤ人でいようよ。そのほうが楽だよ」と。
あいつは今でもそういうマヤカシを私達に仕掛けています「ふつうのクリスチャンでいて、日曜日の礼拝通おうよ。」あるいは、逆に「奇跡とかばちっとできるスーパー・クリスチャンでいようよ。」と・・・日々私達を誘惑しているのです。
ともかく、いつものことですが、サマエルの言うことはいっつもいっつも、むしろ「まっとう」なんです。
ただ、人間が勘違いをしているのです。
彼は何一つ嘘をついていないんです。フラシスコ会訳の注釈には「神の言葉を否定している」とありますが、彼は「神の言葉を否定」したのではなく、単に「女」の勘違いを肯定しているのです。彼女の浅はかさを見抜き、そのスキを広げているだけですが、そのスキを作っているのは、むしろ「女」のほうです。
「園の木の実はどれも食べれないのか?」と尋ねる、「女」の答えと、神の命令の本文を見れば彼女の「浅はかさ」がもたらした「穴」がわかります。
フランシスコ会訳にてベレシート(創世記)2:16をおよみいたします。
神である主は人に命じて仰せになった、「お前は園にあるどの木を食べても良い。しかし、善悪を知る木の実は食べてはならない。それを食べると必ず死ぬ」
マタイ5:18で、キリストが「あなた方に言っておく。天地の続く限り、律法の一点一画も消え失せることなく、ことごとく実現するであろう。」と言っています。(聞く耳のある人は聞きなさい。)この一点一画というのは「ヨッドもダレド」もという言葉なのですが、これは書道文化を持つ日本人のほうがわかりやすい表現でしょう。表意文字では、一つの点、一つの線にいくつもの象意があります。ヘブライ語と日本語の大きな共通点の一つです。キリストがいう律法とは旧約聖書の律法、つまり「神の理」のことです。では「神の理」とはなんでしょう。万物を創造した「神の言葉」です。
私達は「神の言葉」をそのまま、ありのままに受け取らなくてはならないのです。「自分なりの解釈」「社会的な利便や都合に合わせた解釈」であってはならないのです。KJJKがヘブライ語で聖書を読み直し、新約聖書もヘブライ的視点で読み返すことを第一義としているのもそのためです。
「女」はどうでしょう?
「女」は「中央にある木」は食べてはいけないと、神がおっしゃったと言いました。
ベレシート2:9にはエデンの園の中央には二本の木があるとはっきり書かれています。女は中央の木両方とも食べてはならない、と言われたと言っていますが、そうなのでしょうか?
神が食べてはならないと言ったのは、「善悪を知る木」だけです。「生命の木」は食べてもよかったのです。
この生半可な理解をサマエルはちゃんと見抜いて、それを利用したのです。
その後のセリフをちゃんとみてください「それを食べると目が開いて、神のようになるのを知っているから」もちろん、ご存知です。そのことに何の問題もありません。
しかし、人間である「女」のほうがそれを、神が何らかの意地悪をしているだけで、目が開いて賢くなるのは、良いことなんだ。と勝手に解釈しているのです。
多くの人が、「原罪」を神の言いつけに背いたことである、と解釈していますが、そうではないのです。
「原罪」の正体は、この実を食べることで入ってきたものです。「善悪の判断の基準を自分に持ってくること」です。
言いつけに背いたことそのものは、単なる「躓き」です。躓きはたしかに、罪のきっかけになってしまうことが多いですが、神に近づく大きなチャンスでもあるのです。
神はパワハラの上司とは違います。言いつけに背くだけで、楽園を追放したりはしません。呪ったりはしません。腹いせの制裁などしないのです。
神は愛なのです。追放も呪いも、神は人間に必要だからそのようになさったのです。
ビビデバビデブー派は、ひたすら祈って、人間が末期のガンから蘇って、永遠に生き延びることを目指していますが、このように原罪をおかしたアダムと女が、「善悪を知る」ようになったあとで、「生命の木」を食べて神のように永遠に生きる者にならないように、エデンを追放されたことをどう思っているのでしょうか。ビビデバビデブー派は、この時の「女」と同じです。浅はかで、奇跡を行うという「スーパーヒーロイズム」(スーパーエロイズム)の誘惑に負けているだけです。
キリスト教会は「いい人」「善行を為す人」と呼ばれることにむしろ固執し、神の神秘を否定し、人間哲学、あるいは道徳的な教えにだけとどまろうとしています。これは、アダムが犯した罪です。無難な良い子であろうとしても、結局はアダムも自分で選んで木の実を食べるんです。「悪いのはあいつら」「俺らは正当」と言いますが、結局同じなのです。イケ面天使のサマエルから誘惑された女は、あるいみ「しかたない」ですが、アダムはどうでしょうか? 女から誘われるままに、つゆとも拒むことなく食べちゃっているのに、挙句の果て、「女」にだけでなく。神に責任転嫁しているのです。
明日は新月祭でして、明日からペサハ、過ぎ越しの祭の準備をさせていただきたいと思いますので、一ヶ月以上空いてしまうことになってしまいますが、それも神のお導きだと思います。アダムの反応の意味、そしてこの原罪がいつ起きたのか、さらに「善悪を知る木」の正体については、また今度に持ち越したいと思います。
今回は最後に「へび」という言葉の不思議をお話して終わりたいと思います。
ここで出てくる「へび」という言葉、その正体はイケ面天使でございましたが、この「へび」はヘブライ語で「ナハッシュ」という言葉です。これは「推測」するという動詞でもあり、魔法をかけるということです。同じ動詞が、十戒の第九戒「偽証するなかれ」に出てきました。偽証するというのはどういうことでしょう?「白を黒」と言い「黒を白」と言うことでしょう。善悪を決めるのは神の特権です。「善しとする」は神のコメントです。人間が自分の満足を基準に言うべきコメントではありません。これが原罪です。原罪がなにか。それは人間が神ではなく、自分たちの基準で善悪を判断することです。
原罪とは、へびの誘惑によって、人間の体の中に入ってくるのです。たとえ、食べ物が良いものであっても、食べる時の食器がバイキンだらけだったら、その食べ物も毒されて害をなすものとなります。
へびの本名は「サマエル」、「神の毒」なのです。
そして、忘れてはならないのは、神はケチでも意地悪でもないのです。「食べてはならない」ものをなんの意味もなくお造りにはならないのです。そこには神が示そうとした「生き方」があります。そして順序があるのです。人間は、その順序という善悪を、ここで自分たちで決めるものにしてしまったのです。図らずも、そんな大きな責任を、誘惑に負けたがゆえに背負ってしまった。原罪のみならず、神に犯した罪によって傷つくのは、神ではありません。私達人間自身です。
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