安息日礼拝 vol.15 Feb 01 天地創造
途中、過ぎ越しの祭や初穂の祭などなど、重要な例祭が入ってきますので、その度に話題が変わってはいくと思いますが。創世記をヘブライ語で読み、原始訳(ギリシャ語)を参照しながら、直訳を味わっていきたいと思います。
きっと驚かれると思います。
しかし、これは、我々がイスラエルの神を唯一無二の創造主たる神として、私達の人生にお迎えすることに役立つことだと信じます。
1.べレシート
創世記のヘブライ語のタイトルは「べレシート」「はじめに」という意味です。
旧約聖書はヘブライ語で書かれました。こういうと、私はたいてい「え?」というリアクションを返されることが多いです。日本人の無宗教あるいは、異教徒たちならば、そのリアクションもわかるのですが、クリスチャンと呼ばれる人々にも、たいてい言われます。悲しかったのは、キリストがユダヤ人と言ったときに、クリスチャンなる人々が驚いた時です。
もう無知は許されない時代です。
さて、日本語の聖書は、英語訳を大きな基盤として翻訳されてきました。英語訳はラテン語訳を大きな基盤としていましたし、ラテン語訳が基盤にしていたのは、ギリシャ語訳です、ギリシャ語訳は最初に造られたギリシャ語訳である「七十人訳」と呼ばれる訳本を頼りに翻訳されたのです。つまり、本当に原本のみと向き合って訳されたのは、七十人訳だけだということです。今私達が手にしている聖書がいかに、稀釈され、味が薄いものになっているか、これでおわかりいただけるでしょう。
日本語や英語、ギリシャ語の聖書のタイトルは「創世記」「民数記」などなど、書かれている内容を要約したものです。しかし、ヘブライ語のタイトルは書かれている内容は無関係で、その書に書かれた最初の「ことば」がタイトルになっているのです。
ですから、ヘブライ語の創世記は「はじめに」という言葉で始まるのです。
あらかじめいくつか申し上げておきます。絶対に驚かれると思います。
私はヘブライ語を勉強しているだけでなく、エノク書を読んでしまっています。宗教者たちの言い伝えとは無縁の創世記をご紹介いたします。まず忠告しますが、創世記第一章の六日目の出来事としている「人」の創造と、第二章に描かれている「人間」の創造は別の出来事です。そこにも近いうちに触れます。
はじめに1:1-5(フランシスコ会訳)
初めに、神は天と地を創造された。地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた。
神は仰せになった「光あれ」。すると光があった。神はその光を見て、善しとされた。神は光と闇とを分けて、光を「昼」と名付け、闇を「夜」と名付けられた。そして夕べとなり朝となり、一日目が過ぎた。
2.一対の天
神という存在は、「初め」よりも以前に存在し、天と地を創造されました。
この「天」というのが、いわゆる空ではないことは、きっと皆様も合点がいくことと思います。多くの人が、この「天」を天国だと考えています。
たしかに、ここで「天」という言葉として使われているのはバシャマイムといって、天国、神の国、御国と訳されることが多い単語で。ずばり、天国を指すのですが、ここでいきなり、皆様が、蛍光灯を頭の上に浮かべながら、空を飛んでいる羽の生えた赤ちゃんがいっぱいいて、お花畑と清らかな水のある空間を天国として空想されてしまうと思いますが、それが天国の姿かと言えば、そうでもないのです。しかも、ここで使われているバシャマイムとは、「2つある」ことを指す複数形で書かれています。
ここで、第一の天、第二の天、第三の天という概念がはっきりしてきます。三つの天というのは、ここでの記述から来ていると考えて大丈夫でしょう。
第一の天は物質的な空。この翌日の二日目に神は「水の中に大空あれ」と命じ、3つ目の「天」をつくります。第二の天と第三の天は一対で、創造の一日目に造られました。
第二の天は霊的な天使たちの住む領域。第三の天は「天の天」全能の神の王座です。ちなみに、エゼキエル書1章に、預言者エゼキエルが見た幻について書かれていますが、22節と26節をみると、どうやら、第二の天と第三の天との間にはハッキリとしたシキリがあるようです。
とういうことは、一つの疑問が頭をよぎります。「地獄」はどうしたのだ。この創世記は全宇宙の創造について、そのすべてが書かれているのですが、どこにも、「そして神は、悪人たちを懲らしめて、死後永遠に閉じ込めるための地獄を創造された」だとか、「死者たちの国、冥界を創造された」などとは一言も書かれていないのです。神は一対の天たる神の御国と、地を創造されただけです。
ここから、分かってくる真理があります。私たちはこの世の他に地獄があると思いがちですが、それは違うのです。私達が行きているこの時空間が、とりあえず「地獄」なのです。神の救いに与らず肉体の死を迎えたものは、永遠の滅び、つまり意識世界のループに陥り、生物世界最大の拷問を永遠に受けるのです。神はそうおっしゃっているのであって、いわゆる地獄がべつにあるのではなく、私達はあくまでも、いま、地獄で暮らしているのです。しかも、神はここを「地獄」だなどと読んでいません。単に「地」「エレツ」と読んでいるだけです。「地獄」ということばを作ったのは人間です。
さらに、この「エレツ」は地上を示す「アレツ」とは違います。ではエレツとは何なのでしょうか。使っている文字は同じなのですが、ユダヤ人がこの部分を読んでいるのを聞いていると、どうも「アレツ」ではなく「エレツ」と明らかに発音しているのです。そして、「アレツ」とはべつに「エレツ」という単語が存在することが調べてわかりました。ところが、エレツには「天の地上」とかいう意味があり、私には、意味が掴みきれませんでした。
しかし七十人訳の創世記をギリシャ語で読んだ時に、この謎が解けました。
七十人訳では「天」を「不可視」、地を「可視」と訳していたのです。
これを、すべてまとめるとこういう訳になります。
存在すると意を決した神は初めに、一対の不可視の世界と、可視の世界を一つ作った。
つまり、神は三次元までの周波数の世界と、それ以上の次元の世界をお作りになったのです。
この「初めに」という言葉が、無から有を生じさせたとおっしゃったクリスチャンの兄弟がおられ、「有から生まれる」ってことは絶対ないの?という無宗教の友人がおられました。頭の固い私はそのとき、確信して前者のクリスチャンの方に賛同しました。「0」の存在が前者の論理を支持していると考えたのです。 しかしその時、イスラエル在住経験があり、ヘブライ語に堪能な方がこうおっしゃいました「無から有という考え方は二元論なので好きじゃない」 そこで私は、悔い改めを迫られました。私は分かったつもりでいた傲慢を癒やしてくださるように、お祈りしました。そして、カバラのツィムツームに関する論文を探して読み始めました。ツィムツームは世界の紀元のプロセスを表したものですが、正直に言って私には難しすぎて、完全に理解できるのには時間がかかります。しかし、私には陰陽五行と八卦思想がありました。ツィムツームのすべてを理解することは出来なくても、ツィムツームと八卦の考え方が似ていることは理解できたのです。「無から有」という発想がそもそも違うということに、気づきました。そして、改めてこの、小さな一文を見た時、答えは初めから示されていたことに気づきました。神は「初めに」よりも前に「在った」のです。そして、そこから、「有」も「無」もお造りになったのです。ツィムツームとは、神の生命エネルギーが拡張を続けることによって、あらゆる生命が発生することを書いたものです。実は八卦は「光あれ」の次の段階からの様子と酷似しているのですが、同じく、生命がにじみ出ていって発生している様子を表しています。
地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた。
フランシスコ訳では、原文に近い形で約されています。
「地はむなしく、何もなかった」の部分を、「混沌(カオス)」と訳しているものもあるようです。口語訳は「地は混沌であって」と訳しています。フランシスコ会訳のほうが正解です。「地はむなしく、何もなかった」のです。もっと言うと「形なく、虚しかった」と訳すべきです。しかし、この一節で最も難解なのは、「深淵」です。
しかし、どうしてこれを深淵と訳したのか、わかりません。原文ではこう書かれています。「原始の生命の塵の海のようなものの面を」となります。全然違います。さらに原文では舞っていたとは、実は書いていなくて、長いこと翻訳するのにかかったのですが、「鷲が雛の上を飛んでまわるかのように。」という言葉でした。
これをまとめると・・・
「目に見える物質の世界はまだ無形で、虚しく、原始の生命の塵の海のようなものの面を、神の霊がまるで鷲が雛の上を飛んでまわるかのように覆っておられた。」
私はこの部分を読んで大変感激しました。親鳥が雛の上を飛んで回るという様子が嬉しかったのです。
息子が生まれてから、私は時々何十分も眠っている息子の傍らに座り、顔を撫でたり、寝顔を見入ったりしています。息子の事を考えると、私は喜びにあふれると同時に、息子になにか悪いことが起きたらどうしようと、胸を刺されたような思いになるのです。そして、この瞬間のこの息子にはもう会えないのだなと思うと、物悲しさを感じもします。私は息子を心から愛し、自分の命以上に大切に思い、その生命の輝きに感激しているからです。
神も、初めて「原始の生命」に「あれ」とお命じになったとき、ご自分の生命のにじみ出た先で生まれた「生命」に対し、同じ思いでいてくださったのです。
今回はこのように、3次元の世界が造られた様子を見ました。
「光あれ」というご命令により、神の生命からにじみ出て「在るように」なられた「光」はキリストのことです。そのことはもっと詳しくお話します。神の霊と光は、神から直接にじみ出てきた存在です。
来週はこの光の出現により、ようやく陰陽が生じ四次元の概念が発生することを見ていきたいと思います。
きっと驚かれると思います。
しかし、これは、我々がイスラエルの神を唯一無二の創造主たる神として、私達の人生にお迎えすることに役立つことだと信じます。
1.べレシート
創世記のヘブライ語のタイトルは「べレシート」「はじめに」という意味です。
旧約聖書はヘブライ語で書かれました。こういうと、私はたいてい「え?」というリアクションを返されることが多いです。日本人の無宗教あるいは、異教徒たちならば、そのリアクションもわかるのですが、クリスチャンと呼ばれる人々にも、たいてい言われます。悲しかったのは、キリストがユダヤ人と言ったときに、クリスチャンなる人々が驚いた時です。
もう無知は許されない時代です。
さて、日本語の聖書は、英語訳を大きな基盤として翻訳されてきました。英語訳はラテン語訳を大きな基盤としていましたし、ラテン語訳が基盤にしていたのは、ギリシャ語訳です、ギリシャ語訳は最初に造られたギリシャ語訳である「七十人訳」と呼ばれる訳本を頼りに翻訳されたのです。つまり、本当に原本のみと向き合って訳されたのは、七十人訳だけだということです。今私達が手にしている聖書がいかに、稀釈され、味が薄いものになっているか、これでおわかりいただけるでしょう。
日本語や英語、ギリシャ語の聖書のタイトルは「創世記」「民数記」などなど、書かれている内容を要約したものです。しかし、ヘブライ語のタイトルは書かれている内容は無関係で、その書に書かれた最初の「ことば」がタイトルになっているのです。
ですから、ヘブライ語の創世記は「はじめに」という言葉で始まるのです。
あらかじめいくつか申し上げておきます。絶対に驚かれると思います。
私はヘブライ語を勉強しているだけでなく、エノク書を読んでしまっています。宗教者たちの言い伝えとは無縁の創世記をご紹介いたします。まず忠告しますが、創世記第一章の六日目の出来事としている「人」の創造と、第二章に描かれている「人間」の創造は別の出来事です。そこにも近いうちに触れます。
はじめに1:1-5(フランシスコ会訳)
初めに、神は天と地を創造された。地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた。
神は仰せになった「光あれ」。すると光があった。神はその光を見て、善しとされた。神は光と闇とを分けて、光を「昼」と名付け、闇を「夜」と名付けられた。そして夕べとなり朝となり、一日目が過ぎた。
2.一対の天
神という存在は、「初め」よりも以前に存在し、天と地を創造されました。
この「天」というのが、いわゆる空ではないことは、きっと皆様も合点がいくことと思います。多くの人が、この「天」を天国だと考えています。
たしかに、ここで「天」という言葉として使われているのはバシャマイムといって、天国、神の国、御国と訳されることが多い単語で。ずばり、天国を指すのですが、ここでいきなり、皆様が、蛍光灯を頭の上に浮かべながら、空を飛んでいる羽の生えた赤ちゃんがいっぱいいて、お花畑と清らかな水のある空間を天国として空想されてしまうと思いますが、それが天国の姿かと言えば、そうでもないのです。しかも、ここで使われているバシャマイムとは、「2つある」ことを指す複数形で書かれています。
ここで、第一の天、第二の天、第三の天という概念がはっきりしてきます。三つの天というのは、ここでの記述から来ていると考えて大丈夫でしょう。
第一の天は物質的な空。この翌日の二日目に神は「水の中に大空あれ」と命じ、3つ目の「天」をつくります。第二の天と第三の天は一対で、創造の一日目に造られました。
第二の天は霊的な天使たちの住む領域。第三の天は「天の天」全能の神の王座です。ちなみに、エゼキエル書1章に、預言者エゼキエルが見た幻について書かれていますが、22節と26節をみると、どうやら、第二の天と第三の天との間にはハッキリとしたシキリがあるようです。
とういうことは、一つの疑問が頭をよぎります。「地獄」はどうしたのだ。この創世記は全宇宙の創造について、そのすべてが書かれているのですが、どこにも、「そして神は、悪人たちを懲らしめて、死後永遠に閉じ込めるための地獄を創造された」だとか、「死者たちの国、冥界を創造された」などとは一言も書かれていないのです。神は一対の天たる神の御国と、地を創造されただけです。
ここから、分かってくる真理があります。私たちはこの世の他に地獄があると思いがちですが、それは違うのです。私達が行きているこの時空間が、とりあえず「地獄」なのです。神の救いに与らず肉体の死を迎えたものは、永遠の滅び、つまり意識世界のループに陥り、生物世界最大の拷問を永遠に受けるのです。神はそうおっしゃっているのであって、いわゆる地獄がべつにあるのではなく、私達はあくまでも、いま、地獄で暮らしているのです。しかも、神はここを「地獄」だなどと読んでいません。単に「地」「エレツ」と読んでいるだけです。「地獄」ということばを作ったのは人間です。
さらに、この「エレツ」は地上を示す「アレツ」とは違います。ではエレツとは何なのでしょうか。使っている文字は同じなのですが、ユダヤ人がこの部分を読んでいるのを聞いていると、どうも「アレツ」ではなく「エレツ」と明らかに発音しているのです。そして、「アレツ」とはべつに「エレツ」という単語が存在することが調べてわかりました。ところが、エレツには「天の地上」とかいう意味があり、私には、意味が掴みきれませんでした。
しかし七十人訳の創世記をギリシャ語で読んだ時に、この謎が解けました。
七十人訳では「天」を「不可視」、地を「可視」と訳していたのです。
これを、すべてまとめるとこういう訳になります。
存在すると意を決した神は初めに、一対の不可視の世界と、可視の世界を一つ作った。
つまり、神は三次元までの周波数の世界と、それ以上の次元の世界をお作りになったのです。
この「初めに」という言葉が、無から有を生じさせたとおっしゃったクリスチャンの兄弟がおられ、「有から生まれる」ってことは絶対ないの?という無宗教の友人がおられました。頭の固い私はそのとき、確信して前者のクリスチャンの方に賛同しました。「0」の存在が前者の論理を支持していると考えたのです。 しかしその時、イスラエル在住経験があり、ヘブライ語に堪能な方がこうおっしゃいました「無から有という考え方は二元論なので好きじゃない」 そこで私は、悔い改めを迫られました。私は分かったつもりでいた傲慢を癒やしてくださるように、お祈りしました。そして、カバラのツィムツームに関する論文を探して読み始めました。ツィムツームは世界の紀元のプロセスを表したものですが、正直に言って私には難しすぎて、完全に理解できるのには時間がかかります。しかし、私には陰陽五行と八卦思想がありました。ツィムツームのすべてを理解することは出来なくても、ツィムツームと八卦の考え方が似ていることは理解できたのです。「無から有」という発想がそもそも違うということに、気づきました。そして、改めてこの、小さな一文を見た時、答えは初めから示されていたことに気づきました。神は「初めに」よりも前に「在った」のです。そして、そこから、「有」も「無」もお造りになったのです。ツィムツームとは、神の生命エネルギーが拡張を続けることによって、あらゆる生命が発生することを書いたものです。実は八卦は「光あれ」の次の段階からの様子と酷似しているのですが、同じく、生命がにじみ出ていって発生している様子を表しています。
地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた。
フランシスコ訳では、原文に近い形で約されています。
「地はむなしく、何もなかった」の部分を、「混沌(カオス)」と訳しているものもあるようです。口語訳は「地は混沌であって」と訳しています。フランシスコ会訳のほうが正解です。「地はむなしく、何もなかった」のです。もっと言うと「形なく、虚しかった」と訳すべきです。しかし、この一節で最も難解なのは、「深淵」です。
しかし、どうしてこれを深淵と訳したのか、わかりません。原文ではこう書かれています。「原始の生命の塵の海のようなものの面を」となります。全然違います。さらに原文では舞っていたとは、実は書いていなくて、長いこと翻訳するのにかかったのですが、「鷲が雛の上を飛んでまわるかのように。」という言葉でした。
これをまとめると・・・
「目に見える物質の世界はまだ無形で、虚しく、原始の生命の塵の海のようなものの面を、神の霊がまるで鷲が雛の上を飛んでまわるかのように覆っておられた。」
私はこの部分を読んで大変感激しました。親鳥が雛の上を飛んで回るという様子が嬉しかったのです。
息子が生まれてから、私は時々何十分も眠っている息子の傍らに座り、顔を撫でたり、寝顔を見入ったりしています。息子の事を考えると、私は喜びにあふれると同時に、息子になにか悪いことが起きたらどうしようと、胸を刺されたような思いになるのです。そして、この瞬間のこの息子にはもう会えないのだなと思うと、物悲しさを感じもします。私は息子を心から愛し、自分の命以上に大切に思い、その生命の輝きに感激しているからです。
神も、初めて「原始の生命」に「あれ」とお命じになったとき、ご自分の生命のにじみ出た先で生まれた「生命」に対し、同じ思いでいてくださったのです。
今回はこのように、3次元の世界が造られた様子を見ました。
「光あれ」というご命令により、神の生命からにじみ出て「在るように」なられた「光」はキリストのことです。そのことはもっと詳しくお話します。神の霊と光は、神から直接にじみ出てきた存在です。
来週はこの光の出現により、ようやく陰陽が生じ四次元の概念が発生することを見ていきたいと思います。
コメント
コメントを投稿