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安息日礼拝 vol.16 光あれ

今日のテーマは「光」です。 「ベレシート」(創世記)1章3節~5節  神は仰せになった。「光あれ」。すると、光があった。神はその光をみて善しとされた。神は光と闇を分けて、光を「昼」と名づけ、闇を「夜」と名づけた。そして夕べとなり朝となり、一日目が過ぎた。  この聖書箇所を読むのに、ヨハネの福音書の1章を飛ばす信仰リーダーはいません。 ヨハネによる福音書一章4節と5節を御覧ください。  ヨハネによる福音書1章4節~5節  み言葉の内に命があった。  この命は人間の光であった。  光は闇の中で輝いている。  闇は光に打ち勝たなかった。  ヨハネはキリストの弟子の一人で、一番最後に福音書を書いた人です。彼は、福音書を「ベレシート(創世記)」になぞって、書き始めました。  ヨハネによる福音書も参考にしながら、ベレシートを読んでいきましょう。  この「光」を私はビッグバンだと思っていました。しかし、これは間違えでした。神はご自分という命にコマンドし、「光」を「在るもの」とされました。この「在るもの」という言葉は重要で、モーゼがみた「燃えるシバの木」、そしてキリストが言った「エゴ・エイミー」がイコールでつながるのです。 モーゼに「名」を尋ねられて、神は「在って在るもの」とこたえました。キリストが言ったエゴ・エイミー、これはギリシャ語で、これも英語に訳すと「I am "I am"」つまり「在って在るもの」となるのです。  つまり、キリストはマリアの胎を通して初めて存在するようになったのではなく、創造の時に神からにじみ出て存在するようになった、ということなんです。  ただ、人として私達と同じように、朽ちる肉体をもって地上に生まれでたのが、乙女マリアの出産からである、というだけです。  さて、「神は光をみて善しとされた。」というところで、善悪の「善」という字が使われています。  ヘブライ語では、「ヴァッヤール・エロヒーム・キ・トーヴ」と書かれています。そのまま訳すと「見た、神は、満足する」となるでしょうか。  しかも、私を悩ませたのは「光在れ」の「在れ」です。命令形ではなく、未完了の指示。難解でした。そこで尾山令二先生の訳に出会いました。これが原語に一番近い妙訳だと思います。「神は一声『光よ出てこい』と仰せになると、光は出...

安息日礼拝vol.18 三日目

神の創造の三日目が訪れます。 ベレシート1章9節~13節(フランシスコ会訳) 次に、神は仰せになった、「天の下の水は一か所に集まれ。そして乾いた所が現れよ」。するとそのとおりになった。神は乾いたところを「地」名づけ、水の集まったところを海と名づけられた。神はそれを善しとされた。また神は仰せになった、「地は草木で青くなれ。種をもつ草と、種を実を結ぶあらゆる種類の木で地の面は青くなれ」。するとそのとおりになった。地は草木を、すなわち種をもつあらゆる種類の木とを生じさせた。神はそれを見て善しとされた。そして夕べとなり朝となり三日目が過ぎた。  この日の「地」も「地球」ではありません。  「水」はやはり、「原始の命の塵の海」です。  しかしながら、モーゼが記したとされる、この「ベレシート(創世記)」、モーゼもヘブライの民に伝えられた事を記したのだと思います。彼ははじめエジプト人として生活していたので、この創世の経緯はアロンたち兄弟から学び、書き記して、後世に残そうとしたのでしょう。問題はアロンやモーゼたちは、この経緯をあくまでも自分たちが住んでいる地上の創造物語だと思っていただろうということです。しかし、ヘブライの民は口頭伝承をとても大切にする民族で、一言一句違わず伝承してきたのです。しかしながら、そのことの意味が本当に分かっていたかどうかはとても疑問なのです。  聖書を認めていない人には馬鹿げたことのように思われるとおもいますが、この伝承の出どころは、間違えなくアダムとイヴァです。彼らの息子であるセトは彼らから、自分たちが創造された時の物語を聞かされ、セトの子孫たちはそれを語り継いできたのです。ヘブライの民はセトの子孫です。アダムとイヴァは自分たちの実体験を子供に語ったのですが、子孫たちは楽園の目撃者ではないので、自分たちの分かる範囲で解釈したはずです。しかし、神は、この時代に生きる私達に事実を伝えるために、ヘブライ人を頑固な民にプログラムなさいました。彼らは「一言一句違わず」伝えることに異様なまでのこだわりをもっている民族です。おかげで、私達は、この創世物語の真実を見ることができます。  「地」と訳されているところは、やはり、「地上」を表す「アレツ」とは違います。やはり、「エレツ」なのです。「ヴァ・エレツ」と書かれていますが、これは「その地」という意味で...

安息日礼拝vol.17 Feb 15 隔たりの創造

創世の二日目、フランシスコ会訳を見てみましょう。 ベレシート(創世記)第一章6節~8節 次に神は仰せになった、「水の中に大空あれ。そして水と水とを分けよ」。すると、そのとおりになった。神は大空を造り、その下の水と上の水とを分けられた。神は大空を天と名付けられた。そして夕べとなり、朝となり、二日目が過ぎた。 1隔たりの誕生  もう一度確認のために申し上げますが、一日目、「はじめに天と地を創造された」と記されているこの「地」とは、目に見える世界、物質世界のことを言っているのであって、「地球」のことではありません。これを地球と捉えると、てんでめちゃくちゃになるのです。 地球を含めた天体というのは、「四日目」に創造されるので、この時点ではまだないのです。それは、よくよく念頭において読み進めてください。  神は一日目に、目に見えない霊と、目に見える物質を造られたあと、光を在らせられ「一日目の最後」に「時間」を創造されました。  二日目に「上の水」「下の水」とありますが、この「水」がなんのことかというと、「原始の命の塵の海」のことです。ヘブライ語ではそのようになっています。原始の命の塵の海に、まるで、板かなにかを拡めて、区別したと書かれています。そしてここで、初めて上の「原始の命の塵の海」を「天」と命名したのです。そして、ここからは、外典を読まないとわからないのですが、神は「天の命の塵の海」と「地の命の塵の海」それぞれから、別々に創造を続けていかれます。そして、エノク書によるとこの二日目に「天の命の塵の海」から、神は天使を創造されるのです。そして、天使というのは決して、蛍光灯を頭の上に浮かべた羽の生えた赤ちゃんではありません。  私の「一日目」の時に出した画像説明も良くなかったのですが、私はまるで、一日目の時点で、霊質と物質が区別されて出来たかのように表してしまいました。お詫びして、きちんと説明させていただきます。 かえずがえすも、一日目で造られた「天」と「地」は決して、「空」とは別物であることがこれでわかります。しかも、ここで初めて、神は霊的な世界を「天」バシャマイムと命名しているのです。そのため、私は「大空」という訳し方に反対です。大空ではなく神は「隔たり」をお作りになったのです。初めは、一つ所に混在していた「霊質」と「物質」を別のものになさり、完全に区...

安息日礼拝 vol.15 Feb 01 天地創造

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 途中、過ぎ越しの祭や初穂の祭などなど、重要な例祭が入ってきますので、その度に話題が変わってはいくと思いますが。創世記をヘブライ語で読み、原始訳(ギリシャ語)を参照しながら、直訳を味わっていきたいと思います。  きっと驚かれると思います。  しかし、これは、我々がイスラエルの神を唯一無二の創造主たる神として、私達の人生にお迎えすることに役立つことだと信じます。 1.べレシート  創世記のヘブライ語のタイトルは「べレシート」「はじめに」という意味です。  旧約聖書はヘブライ語で書かれました。こういうと、私はたいてい「え?」というリアクションを返されることが多いです。日本人の無宗教あるいは、異教徒たちならば、そのリアクションもわかるのですが、クリスチャンと呼ばれる人々にも、たいてい言われます。悲しかったのは、キリストがユダヤ人と言ったときに、クリスチャンなる人々が驚いた時です。  もう無知は許されない時代です。  さて、日本語の聖書は、英語訳を大きな基盤として翻訳されてきました。英語訳はラテン語訳を大きな基盤としていましたし、ラテン語訳が基盤にしていたのは、ギリシャ語訳です、ギリシャ語訳は最初に造られたギリシャ語訳である「七十人訳」と呼ばれる訳本を頼りに翻訳されたのです。つまり、本当に原本のみと向き合って訳されたのは、七十人訳だけだということです。今私達が手にしている聖書がいかに、稀釈され、味が薄いものになっているか、これでおわかりいただけるでしょう。  日本語や英語、ギリシャ語の聖書のタイトルは「創世記」「民数記」などなど、書かれている内容を要約したものです。しかし、ヘブライ語のタイトルは書かれている内容は無関係で、その書に書かれた最初の「ことば」がタイトルになっているのです。  ですから、ヘブライ語の創世記は「はじめに」という言葉で始まるのです。  あらかじめいくつか申し上げておきます。絶対に驚かれると思います。  私はヘブライ語を勉強しているだけでなく、エノク書を読んでしまっています。宗教者たちの言い伝えとは無縁の創世記をご紹介いたします。まず忠告しますが、創世記第一章の六日目の出来事としている「人」の創造と、第二章に描かれている「人間」の創造は別の出来事です。そこにも近いうちに触れます。 はじめに1:1-5(フランシスコ会訳)  初...