安息日礼拝 vol.4 タオ

 安息日シャローム!
 本日2019年11月27日水曜日には、新月祭です。新しい月が始まりました。みなさん、祝福の中で喜びを満喫して、新しい月を始めてください。
 前回の安息日でメシアニック・ジューのラバイ、ヨナタン・カーン氏のメッセージをまず、そのまま分かち合いました。以下がそのメッセージです。 原文を読みたい方は、こちらからどうぞ。


「道」たる信仰

<翻訳:棟方玲宇>

「救世主信仰」を表す呼び名で最も古いものの一つが、
 使徒言行録に記されている「ザ・ウェイ」「道」という呼び名です。
 この呼名は広く、そして深く影響力を及ぼす言葉です。
 キリストにない人に限らず、キリストを信じる人もそうなのですが、
 人生を「状況」や「環境」に左右されがちです。
 しかし、この「道」という言葉の意味を考えてください。
 「道」とは「場所」や「環境」のことではありません。
 それはむしろ、縦横に「場所」を縫い貫き、「環境」などに関わらず行き渡るものです。
 それゆえに、皆さんの信仰も「環境」ではないのです。信仰とは「道」なのです。
 もし、貴方が「道」に生きる人であれば、貴方はもはや「状況」によって生きる人ではありません。
 ましてや、問題に縛られる存在でもないのです。
 「道」である人は周りにどう影響されるかが問題ではなく、どこへ行くかが問題なのです。
 詩篇23篇には、山や谷が人生の一場面として描かれていますが、重要なのは山や谷ではなく、
 命の道を踏みしめながら歩き、前進している貴方こそが重要なのです。

 だから、左右を見回すのはやめて、しっかり踏みしめて強く前進してください。
 なぜなら貴方の信仰は「環境」とは呼ばれず、「道」と呼ばれているのですから。

箴言 10:17 (新共同訳)
諭しを守る人は命の道を歩み懲らしめを捨てる者は踏み誤る。

今日はタオイストである私という「楽器」をつかって、神がその息吹によって奏でてくださる音色をお楽しみください。

1. タオ 

 私は「タオイスト」です。老子による哲学「タオ」を真理に根付いていると認めているのです。こんなことを言うと、クリスチャンの方々は「異教徒!」とか「異端だ!」とか「偶像崇拝だ!」と批難されるでしょう。
 まず「タオ」は哲学であって、宗教ではありません。
 「タオ」とは「道」と書きます。
 たしかに、このタオに感激しすぎ、勢い余って宗教化した「道教」という宗教があります。しかし、宗教のすべてが、勢い余ってできたものであって、本質を表したものではないのです。仏教もブッダに感激した拍子に勢い余ってできた宗教です。イスラム教も、ムハンマドに感激して勢い余ってできた宗教です。キリスト教もユダヤ教もそうですが、創造主たる神に感激した拍子に勢い余った宗教であるだけ希望が持てます。クリスチャンは創造主の真理に向かいたいと思っているので、あとは「方法」…「The Way」の問題なのです。
 このカーン氏のメッセージを読んだ時に、当然タオイストたる私は老子の「タオ」の理念と完全に合致していることに気が付きました。タオにおいて大切なキーワードたる四文字をご紹介します。それは「無」「道」「名」「水」です。メシアを信じる者にとってもこの四文字は大変重要な意味を持ちます。今回はヨハネによる福音書14章にある「私は道であり、真理であり、命である」の中にある「道」とタオの共通点に着目して、ヘブライ語の「道」…「デレフ」についてお話したいと思います。

2.場所の霊性、道の霊性

 宗教とは、民族的環境、社会情勢によってできた「事情」、つまり「環境」に過ぎないのです。
 先日私は非常に貴重な経験をいたしました。ユダヤ教のシナゴーグに訪れてみたのです。そこで、イスラエル人の奥様を持つ男性に会いました。伝統的な帽子を頭に乗せていらっしゃり、娘さんご夫婦とお孫さんもさんかしていました。その方が「もうすぐ孫のバー・ミツバなんだよ。」とおっしゃいました。バー・ミツバとはイスラエルの民が13才で迎える成人式です。私はてっきり、その日本人男性もユダヤ教徒なのだと思って、改宗の経緯をうかがいましたら「なにを言うてんねん、おれは真言宗や」とおっしゃったのです。
 私はこれまでに、何度も何度もこのセリフを聞いたことがあります。日本人にとって、日本の神様は仏教であり、神道なのであって、キリスト教は外国から来た神様であって、自分たちの担任の神様ではないのです。仏教も外国から来た宗教ですが、そこは、早いものがちです。日本はすでに、一つ外国の神を許容したので、もう「間に合ってます」という気持ちもあるでしょう。宗教は「場所の霊性」の産物なので、環境によって変化します。インドで生まれた仏教ですが、日本の仏教の中に「インド感」はあるでしょうか?正直ゼロに近いと思います。日本に入ってきた時点で、日本の風土、生活、日本人の気質に合わせて変化しています。キリスト教もそうです。ギリシャ、ローマに入った時点でどんどん、ヘレニズム文化にカスタマイズされていきます。
 しかし、タオは違います。真理とは「道の霊性」なのです。何一つ主張することなく、しかし頑と存在し、柔軟でありながらも、決してゆるぎません。ありとあらゆる「環境」を貫通して、さらに命を流通していっています。
 日本語でも「道」とは、物理的なStreetという意味もあり、方法、作法…そして「法」という意味があります。ここがミソなんです。イェシュアはタオなのです。

 前回の安息日礼拝で、キリストの受肉と東の門の関係について、分かち合いました。
 それと通じているのですが、今回は「東の門」を宣言したイェシュアのもう一つの宣言である「私は道である」について掘り下げてみたいと思います。
 ヘブライズムにおける「タオ」を思いっきりギュッと踏みしめていきましょう。
 
 ヘブル語で道はこのように書きます。右から左に読みます。

デレフと読みます。行き止まりがあったり、短かったり、長かったり…道は、柔軟に対応はしても、道としての本質は変わらないのです。
 「道」は、方法であって、法則、摂理、そして必ず通らなければならない、必然のプロセスです。

3.嫌われ者の「デレフ」

ヘブライ語のデレフは女性の月経という意味もあります。
 みなさん、イスラエル社会で月経中の女性がどれだけ嫌われているかご存知ですか?聖書の時代からずっと、月経中の女性は迫害を受けます。シナゴーグ(会堂)には入れてもらえませんし、町でたまたま、月経中の女性に触ってしまった男性は大慌てで、聖なるお風呂で体を浄めなくてはならないのです。「汚れ」と呼ばれる期間です。
 しかし、真理を考えてください、この月経が始まらなければ、女性は出産をすることができないのです。「汚れ」と人が忌み嫌うこの現象が発生しなければ、命は誕生することができないのです。
 聖書にはニコデモの物語があります。ヨハネによる福音書3章1節から21節です。ユダヤ社会の宗教的指導者といえば、超エリートなのですが、ニコデモはそんな宗教的指導者の一人でした。夜人目をしのんで、ニコデモはイェシュアに教えを乞いに行きます。「天の御国に行くには、どうしたら良いでしょうか。」というニコデモの問にイェシュアは「だれでも、新しく生まれ変わらなかったら、御国に入ることはできない。」と答えています。それに対し、ニコデモは、自分はもうお爺さんなのに、どうやってまた母の胎内に戻って新しく生まれることができようか!と驚いたのです。
 イェシュアの「道宣言」は、このヘブライ語の「デレフ」無しには語れないのです。
 デレフは、月経ですから、命を誕生させるために必要なプロセスという意味です。
 イェシュアがデレフ…道であるというのは、イェシュアが新生のプロセスであるということです。

 さて、最近は道路はきれいなものです。しかし、少し前まで、道はどうだったでしょうか?
 聖書にはこんな下りがあります。マタイによる福音書5章13節、これは山上の垂訓の一部です。
マタイ5:13
あなたがたは地の塩である。だが塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味を付けられよう。もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
「人々」とありますので これは、町中のワンシーンです。郊外のぽつんとした一軒家ではありません。町中の家というのは道に沿って建っています。つまり、ポーンと捨てられた塩はどこにおちるのか… 道に捨てられるのです。
 イスラエルには死海があります。ここでいう塩というのは岩塩のことです。

 岩塩の中には、出来損ないもあったようで、そういった出来損ないの岩塩はすぐ廃棄処分になったようです。そして、どこに捨てていたかと言うと、家の外にポイッと投げ捨てられるのです。投げ捨てるのは、出来損ないの岩塩だけではありません。ゴミや食べかすも道に捨てるのです。今でもありがちですが、痰を吐いたり、鼻水を飛ばしたり、嘔吐したり…
 ローマの道はもっとひどかったです。人間や動物の排泄物も道に投げ捨てます。まるで「道」は「トイレ」と同義語であるかのような有様でした。
 キリストをよくご覧ください。どうかみなさん、キリストが誕生したあの初秋の夜に意識を飛ばしてみてください。キリストはどこにいますか?家畜とともに、狭いあばら家で糞尿の悪臭が漂うところにお産まれになりました。そうです、女性が出産したのです。
 マリアは処女でしたが、月経は経ているのです。その「ダレフ」を通って、神自らが受肉して私達を迎えに来てくださったのです。
 そして、みなさん、キリストをよくご覧ください。こんどは、ゲッセマネで捕らえられ、人に唾奇をかけられ、殴られ、踏まれ、罵られているキリストです。
 
 みなさん、聖書に表されている神は「外国の神」でしょうか?キリストは外国人の物であって私達には関係ないのでしょうか? キリスト教は外国の宗教です。正解です。しかし、キリスト、メシア・イェシュアは外国のものではありません。老子が深い瞑想によって読み取った宇宙哲学である「タオ」はイェシュアが真理であることをさしているのです。これも立派な預言なのです。「タオ」はローマやギリシャを経由して居ない分ヘレニズム主義の手垢がついていない上に、宗教でもないので純粋に神の摂理を物語ります。
 そもそも、神は真理のはずなのに、地域担当制なのはおかしいと思いませんか?私は、ブッダや天照大神が偽物の神で存在せず、聖書に表される神が本物だということを言いたいのではありません。なんども言いますが、私は宣教などというナンセンスを勧めたいのではないのです。「キリスト教という宗教をあなたの宗教として選んでください。」ということを言っているのではないのです。
 ブッダは実在しましたし、本人が「自分は神ではなく教師だ」と言っているのです。天照大神も在ったもしれません。バールの神だって「居ない」だけで、「在らない」とは限りません。私が言いたいのは、「そんなこと、どうでもいい」ということなんです。たとえそれらの神々が実在していたとしても、聖書に表される神は、それらの神々をも創造された、神々の神なのです。私は思うのですが、天照大神もスサノオも在るならば、大迷惑だと思っているはずなんです。ブッダは間違いなく「大迷惑」と思っているはずです。神の道具として働いたのに、神の栄光を人間たちが理解せず、ただの道具である自分たちを崇拝してしまっていることに対し「いや、結構です!」と思っているはずです。だって彼らは、たとえ実在したとしても、「タオ」ではないのです。誰一人として(あるいは、誰一柱として、というべきでしょうか?)「私は道である」とは宣言していません。彼らは「天を支える柱」ではあっても、道ではないのです。
 見てください、欧米社会の言葉のどれも、この関係性を表すことができません。しかし、日本は古来から神を数える単位として「柱」を使ってきました。神々と「創造主」の関係性を見事に物語っています。それは、創造主たる神は「一つ」であり、神々の神であり、このアジアに、そのことを証するためにたくさんの痕跡をお残しになった、という何よりもの証拠です。「君が代」「さくらさくら」「かごめかごめ」「ヤーレンソーラン」「ハッケヨイ・ノコッタ」皆、私達が日本語だと思っていた言葉が実はヘブライ語だったということも、それを表す事例です。「言葉」は神のホログラムです。すべてが神の預言なのです。
 このことが大きな声で叫んでいるのは、これです「神は日本人、アジア人にとっても唯一絶対の神であり、真理である!」そして「真理はひとつ!」です。
 キリストだけが、神の幕屋に通じる唯一の「タオ」なのです。イェシュアだけが「タオ」として生き、死に、そして復活したからです。
 タオとは、「汚れ」であり、「辱め」です。しかし、そこを通らなければ、神の幕屋へたどり着けません。タオは「汚れ」かもしれません「辱め」かもしれません。しかし、この世で最も聖く、美しく、賢いのです。そしてこの世で最も不可欠なものなのです。まるで、北極星のように動かず、変わらず、私達を神の幕屋へと導いているのです。

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