ザ・リシーバーズ1「羊飼いたち」

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安息日において、皆様に平安をお祈り致します。
シャバット・シャローム!

KJJK最初の分かち合いとして、キリストの誕生物語の脇役たちである…
羊飼いたち
東方の三博士
この二組の人々に着目し、2回にわたって、キリスト誕生にまつわる預言を紐解きたいと思います。

聖書を共にお読みいたしましょう。

ルカによる福音書2章1節~17節
Luke2:1~17


1.受取人たち

「救い主が産まれますよ!」というニュースを受け取った人々が何人かいます。
サンドロ・ボッティチェッリ 「受胎告知」
まずは、マリアです。有名な受胎告知ですね。
 
棟方玲宇 「Joseph」
そして、ヨゼフです。マリアの婚約者だった彼ですが、婚約者にまだ「触れてもいない」のに、妊娠してしまい、彼女を内密に離縁しようとするのです。当時のイスラエルで、未婚のまま懐妊した女性は石を投げられ、ひどいリンチを受けるんです。マリアを愛していたヨゼフは、そんな辛い目に彼女をあわせたくないから、こっそりと離縁して彼女を守ろうとしたのです。そんな彼に御使いが現れて「心配しなくていい。マリアと結婚しなさい。マリアが宿している子供は聖霊によって身ごもった子で、その子こそが救世主です。」と告げました。
 マリアとヨゼフは、この救世主の両親に選ばれた人たちなので、「マリアの妊娠」という事態がどういうことなのか、御使いがそれを告げに来られても、さして不思議ではありません。
 しかし、この二人以外にも、御使いによって救世主の誕生を事前に告げられた人たちがいます。
 それが、「羊飼い」と「東方の三博士」という存在です。
 「救世主が産まれた」あるいは「救世主が産まれる」というニュースを「福音」と言います。直訳すると「ハッピー・ニュース」です。このハッピー・ニュースの受取人としてどうして、羊飼いと東方の三博士が選ばれたのか。このことに隠された預言的な意味は何なのか。
 多くの人が、この「処女懐胎」を、キリスト教という宗教を信じる人だけに通用する「神話」あるいは「おとぎ話」としてとらえ、これを虚構だと思っていることでしょう。
 私もその一人でした。しかし、これはおとぎ話ではないのです。
 色んな角度から、それを証明することができます。 最近は科学的に、卵子だけで妊娠する可能性が0%ではないと、証明されたそうです。私は科学者ではないので、科学で証明…「証(あかし)」することはできません。舞台芸術家として長年人間の心理を見つめ、人間を描いてきました。その私ができるのは、人々の言動、あるいは記述されている言葉などから、この福音がただの神話や、おとぎ話ではなく、事実であり真実であったことを、証することです。
 さぁ、いっしょに、羊飼いと、東方の三博士が握っている秘密のコードを紐解いて見ましょう。

2.ハッピー・ニュース!

聖書の舞台はイスラエルです。
 イスラエルはユダヤ人の国です。キリストもユダヤ人でした。
 キリストが産まれた当時のユダヤ人は「旧約聖書」を聖典としています。旧約聖書にはあることが預言されています。「メシア」の降誕です。
 メシアとは、ヘブライ語で「救世主」です。
 何から救うのか…私達を「罪」から救うのです。この「罪」が何なのか、救われなかったらどうなるのか、本当はそういうことからお話するべきなのでしょうが、今日はあえてその事はお話せずに、ただひたすら、ユダヤ人が、このメシアを待望していたということに目を向けたいと思います。聖書に預言されているメシアの降誕を、ユダヤ人は長い間待ち望んでいたのです。
 ですから、「メシアがお産まれになりました!」というのは、ユダヤ人にとって「ハッピー・ニュース」の中の「ハッピー・ニュース」…「ザ・ハッピエスト・ニュース」なんです。

3.アム・ハアレツ

この最上級のニュースを受け取って、最初に礼拝したグループとして、どうして羊飼いたちが選ばれたのでしょう?
 それを考察するのに、この羊飼いが、どういう存在なのかを知らなくてはならないと思います。
 日本人は「羊飼い」と言うと、ハイジの世界を思い描くでしょう。ヨーデルが流れるなか、緑の草原をスキップするかわいい少年少女の姿が浮かぶと思います。
 イスラエルの羊飼い稼業は過酷です。糞尿に塗れ、冬以外の季節は野宿生活がほとんど。羊を率い、餌となる緑の草、清らかな小川を求めて、山野をめぐります。羊を狙う猛獣たちとも戦わなければなりません。
 こんな重労働に好き好んで就くものはいません。
 ヘブライ語に「アム・ハアレツ」という言葉があります。「アム」は男、人、という意味。「ハ」は定冠詞です。英語の「The」にあたる言葉です。そして「アレツ」はEarthつまり地面、土という意味です。直訳すると「地の人」という意味です。「アム・ハアレツ」はユダヤ人社会で最も蔑まれていた階層でした。この「アム・ハアレツ」に所属するのは、羊飼いの他に、娼婦、遊女、そして取税人の類ですね。
 今でも、肉体労働に従事したり、日雇い労働をする人を蔑む文化があります。風俗のお仕事をする女性も蔑まれています。NHKの集金の労を担う男性を蔑む文化もありますね。NHKの受信料を払いたくない人にとっては、うっとおしい存在だからでしょう。「取税人」というのは、世の嫌われ役を担う人たちの代表です。
 今の日本の世の中も、二千年前のイスラエルも大して変化していないことがわかります。
 羊飼いはこのアム・ハアレツの代表的存在です。彼らは教育もされておらず、字すら読めませんでした。貧困層なので税金も神殿への献金もできません。どうやら、借金を払えなかったりした人たちが、この羊飼いという強制労働に就いていたようです。
 そんな彼らを、神は最初の礼拝者としてお選びになったのです。
バルトロメ・エステバン「羊飼いの礼拝」

4.ひっくりかえす

日本語にはいつも驚かされますが、そのひとつがこの「ひっくり」という言葉、そして「びっくり」という言葉です。これも、この世が唯一絶対の神によって創られたことを雄弁に語っています。しかしそれも、また別の時にお話しましょう。
 さて、イェシュアが預言の救世主ではなく、一部の人々の戯言で、処女懐胎も含めた彼の人生の「物語(ストーリー)」が、「史実(ヒストリー)」ではなくただの戯言であったなら… 最初の礼拝者にアム・ハアレツの人間を選ぶはずがないのです。最初に礼拝するのは最も誉れ高いことなんです。
 当時もそうですが、今でもイスラエルの「学者」の信用度というのはものすごいものです。でも、イェシュアの生涯で律法学者が初めて登場するのは彼がバーミツバ(13才。成人式)を迎えた時です。
 家畜たちの糞尿の悪臭が漂う環境で、飼い葉桶に寝かされているのです。そこに、最初の礼拝者として、浮浪者と変わりない羊飼いです。
 こんなエピソード、たとえ事実であったとしても、伝えないほうが良いでしょう。
 当時のイスラエル社会で、人を信用させたいと思ったら、学者をびっくりさせた13才の時のエピソードから始めて、神童伝説として伝えるのが一番です。
 ブッダの誕生は、生まれたその時から「オギャー!」じゃなくて「天上天下唯我独尊!」と言い、立って歩いて、しかもそのちっちゃな足跡から蓮の花が咲くんです。
 神の子、ヒーロー、スーパースターのプロモーションをしようと思ったら、ブッダのとった方法のほうが有効です。
 悪臭漂うなか、大工の息子として産まれ、浮浪者たちが最初に礼拝しにきましたぁっ。なんて、どう考えても言わないほうがいい。2千年前ですよ!当時、こんなSituationが説得力を発揮するような社会情勢ではなかったはずです。
 
 しかし、この誕生物語を、神は後の世にあえて遺されました。当然、わざとです。
 ひとえに、このことに重要なメッセージが込められているからです。神は、人としてこの世にお産まれになり、拷問を受けて十字架に死に、その3日後に復活された、この事実を通して、「ひっくりかえし」を実現なさったのです。
 人間の罪は、宗教では解決しない。(キリスト教を含めて宗教のすべてが無意味です)
 このエピソードが示している多くのテーマの一つは、間違いなくこれ↑です。
 アム・ハアレツは字が読めないので聖典を読むことができないし、献金もできないので礼拝に来ることもできない。つまり、もっとも「非宗教的存在」なんです。よって、アム・ハアレツは救われるはずのない存在だったのです。当時のイスラエルでは、「宗教的であること」と「まっとう」であることはイコールでした。アム・ハアレツとは「まっとうに生きていない人たち」のことなんです。
 神は万人を覚えておられ、「虐げられた人」をこそ高められるのです。
 
 このエピソードを多くの神学者が「神が障壁を取り払われる、ということだ」と解釈しています。これによって、「見下されていた人たちの人権が回復していく」ということです。しかし、「社会の底辺にある人を馬鹿にするのはよくないこと」それだけがこのエピソードのメッセージなのでしょうか?
 おそらくそれもあるでしょう。しかし、私には、それだけではないと思えて仕方ないのです。
 なぜなら、そうなると、社会の底辺にある人々にしか、イェシュア(神の救い)は必要ない。礼拝する必要がない。ということになりませんか?
 字は読めるし、普通に毎日まじめに月給をもらう仕事をしている人にはイェシュアは関係ない人なのでしょうか?別に、誰のことも見下していないし、まっとうに、真面目に生活し、他人には親切にしている人にはイェシュア(神の救い)は関係ないのでしょうか?
 
  さきほど、今でも肉体労働者、風俗従事者、嫌われ仕事の従事者を蔑む風潮は変わらないと言いました。イェシュアの死と復活によって、みんなが優しくなるという奇跡は起きなかったのでしょうか?それとも、「ひっくりかえし」は時間がかかる緩やかな変化で、まだ完了していないのでしょうか?

 いいえ、「ひっくりかし」はもう行われたのです。イェシュアの誕生、死、復活の奇跡は、宇宙最大の奇跡です。 私達が三次元の世界で「わかりやすい奇跡」を期待するがために、見えていないだけのことなのです。
 
 ではなにが「ひっくりかえった」のでしょうか?
 100円のアイスクリームの景品で、ドリカムのコンサートの特等席チケットがあたったみたいに、社会の底辺にいる人達が、全ユダヤ人最大のビッグイベントの最初の礼拝者となるという、超優待者になることで、立場が「ひっくりかえった」のでしょうか?
 もちろん、それもあります。
 私は、「まっとう」という言葉が「ひっくりかえった」のだと確信しています。

 当時、アム・ハアレツという言葉の意味が独り歩きして、宙に浮いていた状態だったのを、神が「ひっくりかえして」本来の意味たる「実態」を、語彙の中に放り込んだと思ってください。

 創世記2章7節を御覧ください。(新共同訳)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人間はこうして生きる者となった。

 人間創造の瞬間を描いた記述です。つまり、人間はみんな「アム・ハアレツ」なんです。人は容易に自分は大丈夫で、他の人がアウトローと決め込みます。つまり、「常識」を偶像崇拝し「アム・ハアレツ」に勝手に別の意味をもたらし、「アム・ハアレツ」というモンスターをつくりだしたのです。
 以前、まだ未熟な「クリスチャン」であった時に友人が突然亡くなりました。私は「宣教しなきゃ!」と躍起になり、友人のご主人に御言を伝えようとしました。すると彼はこう言ったのです「別に、特定の宗教を差別するつもりはないんだけど、家も無事に売れたし、まっとうに生きていたら、なんとなくやっていけるのかな、と思って」と言われました。多くの人がこう考えているのです。自分は、悪人ではないし、赤信号をたまに渡る程度の悪さしかしないし、地震が起きたら1000円くらいは募金するそこそこ良い人だから、まっとうな人間だ。
 口では「自分は弱くて、至らない人間だ」と言いながら、結局自分はまっとうに生きているから、神様に救済される必要がないと思い込んでいるんです。
 今でもそうですが、キリストの時代のうんと以前から、ユダヤ人ほど敬虔な民族はいません。イスラエルのドラマを先日見ましたが、9才の少年が夜中、水を飲みに起きてきて、眠気眼なのに水を口に運ぶ前にちゃんと祈るのです。私だったら、ごくっと飲んで、寝ます。祈りません。ユダヤ人には食べ物や飲み物を口にする時に決まった祈りの文句があるのです。そりゃあ、借金が返せなくて落ちぶれた人たちに比べたら、水を飲むのにも反射的に祈るお行儀の良い人が「まっとう」であるように思えるでしょう。
 この「比べたら」というのが罠なんです。
 他人と比べて…という比較的価値観は、赤信号を皆で渡るという行為を正当化するんです。
 
 教育が普及して、今の先進国では「字が読めない人」のほうが少ないです。日本では誰もが彼もが大学に行きます。しかし、知恵のある人間は多くいるのでしょうか?

箴言1:7 
主を畏れることは知恵のはじめ
無知なものは知恵をも諭しをも侮る

 「主を畏れること」でやっと知恵がはじまるのです。大学をでようが何をしようが、それは知恵ではないんです。大学を出て、就職をし月給をもらえた時、人間は「まっとう証明書」をもらった気になるんです。でも神の目から見ると、この世でどのように認められようが、神を畏敬しない人間は「知恵のない人間」なのです。
 当時のユダヤ人はたくさん知識があったことでしょう、無知ではなかったはずです。なのになぜ、「最初の礼拝」の栄誉に与ることができなかったのでしょう。

 本日の聖書箇所、ルカ2:9を御覧ください。
すると主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
と、あります。ここでは、「おそれた」という漢字に「恐れた」とあり、箴言の1章7節とはちがうやん!と言われるかも知れません。しかし、「畏れる」と「恐れる」は表裏一体ですし、このあとの彼らのアクションが重要なんです。
 ルカ2:15-16
 天使たちが離れて天に去った時、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった その出来事を見ようではないか。」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた
「さあ、ベツレヘムへ行こう!」です。恐怖していただけでは、むしろそれから遠ざかろうとするはずです。しかし。ここで羊飼いは「さぁ行こう!」と行っています。常識で考えたら、お気楽トンボもいいところです。この時点で彼らはもう「恐れている」のではなく「畏れているのです。」
「天使たちが離れて天に去った」とあります。次回で取り上げる「東方の三博士」のエピソードでは、「ベツレヘムの星」なるものが、博士たちを案内しています。しかし、羊飼いたちには案内がないのです。
 それにも関わらず、かれらは「急いで行って」しかも「探し当てた」んです。
 世間的な「まっとうな人間」はどうするでしょう? まず、今体験した恐怖体験が常識的に考えてどういうものなのか、色んな人に相談して統計をとるでしょう。自分が多数派に属するのかを確認して、社会規範から外れていないことで安心を得ようとするのです。それから、どこかに行かなければならないとなると、ナビやらクチコミやらをチェックして、場所をリサーチするものです。それが「まっとう」な事です。
 しかし、彼らはどうでしょう?さすが「まっとうじゃない」人たちです。場所もわからないのに、「急いで」行っちゃった上に、「探し当て」ちゃってます。「ラッキー!」でしょうね…。いえいえ、神に選ばれた人間に「ラッキー」という言葉は存在しません。すべては、神の必然なんです。
 ただ、ここで注意してほしいのです。「探し当てた」なんです。行った、見た!そこだった!ではないんです。この「探す」という行為そのものが、神に選ばれた民の重要な霊性の一つです。探さないといけないし、求めないといけないんです。
 
 この「羊飼いのブレイクスルー」は主に選ばれた民全員が、ほぼ確実に経験するブレイクスルーです。まず「恐怖」を「畏敬」に昇華させて、自分の強い意思で、急ぎ神の姿を探し求めるのです。私も、もちろんそうでした。
 しかし、ここからやっと、知恵がはじまるのです。大学に行く、月給とりになる…それももちろん大切です。しかし、それらのライフイベントを神からの恩寵としてうけとっていない限り… つまり貴方の人生に神が不在である限り、何の意味もないことです。
 
 神様は「アム・ハアレツ上等」っとおっしゃっているのです。そして「自分たちはアム・ハアレツじゃない」と言っている人たちに「え?いいの?」と問うておられるのです。
 私達全員が「アム・ハアレツ」なのに、「自分は関係ない」と決めつけて良いのでしょうか。それは、黒を白と言っているようなものです。真理は動かないんですから。

 本日の聖書箇所の一つ前の章に有名な「マリアの賛歌」というのがあります。
 そこにこうあります。

ルカ1:50-53
その(神の)憐れみは代々限りなく、
主を畏れるものに及びます。
主はその腕で力をふるい
思い上がるものを打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ
飢えた人を良いもので満たし、
富める者を空腹で追い返されます

 このマリアの賛歌からの~羊飼いの礼拝からの~ルカ2:19 「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」なんですが、それはまたべつの機会に詳しくお話します。 とにかく、この「マリア賛歌」の祈りは天使ガブリエルから受胎告知を受けたときの祈りです。この時、マリアは羊飼いの礼拝が起こることを知らないのですが、心から滲み出た祈りというのは、それ自体が「預言」なのです。聖霊が祈らせているのですから。
 ただ、この祈りに私達が目を向けて、その意味するところを考える時に、意味を限定しないように気をつけなくてはいけません。
 「社長さんや王様が、貧乏人になる」「社会的底辺にあるものが、偉い人になる。」もちろん、そのとおりです。そういうことも起きるのです。
 でも、この羊飼いたちが死ぬ前に金持ちになったのでしょうか?
 わかりませんが、おそらく、彼らは貧しいまま生涯を終えたでしょう。たいていそうなると、みんながっかりするんです。「あ、最初の礼拝者に選ばれただけなのね。」みんな、羊飼いがこの直後、宝くじがあたってすごい億万長者になりました、という話のほうが好きです。日本人は神にご利益を求めますし。 目に見えたご利益がないと「なんだ、それだけ?」とがっかりしますし、なんだか「最初の礼拝者に選ばれた」ということが、虐げられた羊飼いたちの一時的な満足にすぎず、虐げられているわけでもない自分とは、やっぱり無関係で、自分は別に必要としていない。と感じるのです。
 キリストの再臨の時に「礼拝者に選ばれない」ということは、貴方が思っているほど容易なことではない、と、イェシュアははっきりと預言なさっています。
 神は歴史を螺旋状に繰り返されます。貴方が礼拝者に選ばれないということの結果は間もなく明らかにされますが、キリストの初臨において、羊飼いが選ばれたということの預言はすでに完成しているのです。
 それは、語彙の正常化です。神様はプロセスを重んじられる方です。何事も段階を踏まなくてはならないのです。
 神は最初の礼拝者に羊飼いたちを選ぶことによって、アム・ハアレツという言葉にスポットライトをあて、「人間」の語彙を元へ戻されたのです。語彙の正常化です。まっとうであることは、貴方の罪を解決しないのです。私達全員が「人間」である限り、「アム・ハアレツ」なのです。つまり、神が貴方を選んでいるかどうかというよりも、貴方が神の招きを受け取るかどうか、なのではないでしょうか。神は確かに選ばれる方ですし、えこひいきをされる方です。しかし、貴方が選ばれているかどうかを心配する必要はありません。この長ったらしいメッセージをここまで読んでくださっている時点で、神が貴方を選ばれて招いておられるのは間違いないのです。神は「アム・ハアレツ」、地の人、御自らが地の塵、つまり三次元の物質をかけ合わせて創造された「人間」の全員を招いておられるんです。私達はみな「アム・ハアレツ」なんです。
 そして、私達はそのことを喜ぶべきなんです。
 キリスト降誕のニュースは私達全員にもたらされているのです。
 キリスト再臨のニュースも私達全員にもたらされるのです。問題はその再臨の時です。その時に、どっちのカテゴリーにいるのか…
 いわゆる「まっとうな人間」のカテゴリーに収まるのは、救いにあずからないといういみですが、本当にそれで良いのでしょうか?
   「自分はまっとうだ。」と信じること、それ自体が妄想にすぎないのではないでしょうか。

 私達一人ひとりが、自分たちこそが「アム・ハアレツ」だと言う時、それは大いなるプレゼントを受け取るときです。私達こそが最初の礼拝者になることができるのです。
 自分たちはまっとうである、と言い切ってしまうこと、「だから神は要らない」と思い込むことその事がどれほど不毛なことか…
 私は関西人ですからそんな「もったいない」ことはできません。もらえるもんは全部もらわなあかん!
 私といっしょに、神にしっかり顔をむけて宣言しましょう!
「アム・ハアレツ上等!」
 

<サロメの祈り>
 唯一絶対無二の創造主 御言たるイェシュア様
 アレツは三次元の物質世界です。
 アレツの塵、つまり三次元の物質をかけ合わせ、
 私達人間を造り、
 貴方の「息吹」ルアッハ・コデーシュを吹き込んで
 私達を生きるものとしてくださった貴方の創造の御業を褒め称えます。
 貴方は誠に真実の方です。
 しかし私達は、この歴史の長い年月を過ごす中で
 いとも簡単に貴方の御業のすべてを、
 さも自分たちの努力によって勝ち得たものだと思い込みます。
 貴方の御業をないがしろにするのです。
 そのような不毛な物質世界から、私達を引き上げてください。
 貴方が、貴方の息吹を奏でる楽器としてお造りくださった私達の
 本来の姿に戻れるよう、
 貴方が自らこの三次元の世界に降りてきてくださったこと
 心から感謝します。
 私はアム・ハアレツです。
 アム・ハアレツだからこそ、貴方がハッピー・ニュースを届けてくださり
 そして最初の礼拝者として招いてくださっているのだと
 堅く信じて立ちます。
 「良い音」福音を奏でることができますように、聖霊様どうか
 私の中で高く響いてください。
 私のたった一人の救い主 イェシュア様の御名により
 この祈りを喜びつつお捧げ致します。
 アーメン!

 

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