安息日礼拝vol12 キリストはなぜ殺されたか
前回の続きで、未信者の方々のためのメッセージです。
1.キリスト・イホシュアが実在したかどうか?
2.実在したとしても、聖書なる書物に書かれているイホシュアのしたこと、言ったことは全部ウソなのではないだろうか?
3.貴方がアジア人ならば、その外国人イホシュアが「貴方の神」であるのかどうか?
4.そもそも、神は存在するのか?
この4つの問題点のうち、4について、先週はおはなししました。
今日は、1と、先週お読みしたマタイの福音書27章のエピソードを通して2について考えてみたいと思います。
まず、キリスト・イホシュアは存在したのか。
イエス・キリストなるものは存在しませんでしたが、イホシュアというキリストは存在します。聖徳太子は存在しなかったが厩戸王(うまやとおう)は存在した、というのと同じです。
イエスはヘレニズム人が造った偶像です。実在したのは、ナザレのイホシュアと呼ばれた人物で、彼は現実として生身の体を持ってこの世に在りました。このことは、聖書以外の歴史書物にも書かれていることから、歴史を勉強した者として実在の人物だったと断言します。
問題は、それよりも、2の「実在したとしても、聖書なる書物に書かれているイホシュアのしたこと、言ったことは全部ウソなのではないだろうか?」という疑問です。
この疑問に答えるべく、このナザレのイホシュアの裁判をみてみましょう。
この、当時の政治背景をきちんと把握していきましょう。
この時代、ティベリウス帝が治めていました。ローマはアフリカを属州とし、そして、イスラエルも支配下に治めていました。ヘロデ大王と呼ばれた王の息子、ヘロデ・アンティパスは王というよりも、領主に成り下がり、彼はローマが許す限りの統治しか認められていませんでした。 イスラエルは完全に、ローマの属州だったのです。
だから、この裁判のシーンにローマ人ピラトの姿があり、彼が裁判長として裁決を下そうとしています。 イホシュアを殺そうとしているユダヤ人たちは、バルコニーの下で野次を飛ばすばかり。決して決定権が在るわけではありません。
実は、イホシュアがここにしょっぴかれていることそのもの、そして、イホシュアの権威失墜を目指しているはずのユダヤ人が十字架刑を求刑していること、さらにいうと、ローマがこの300年ほどあとに、キリスト教を容認するようになること、これらが、イホシュアが実在したこと、聖書に書かれている奇跡の数々が事実で在ったことを示しているのです。そして、イホシュアが神であり、私達を「滅び」の運命から救うために生まれ、十字架について死に、その3日後に蘇ることを明かししています。
キリストが真実であること。神であることを知るには、この裁判のシーンだけで十分なのかもしれません。すべての証拠は、現代に生きる私達の手に、すでにあるのです。
なぜ、イホシュアは逮捕されたのでしょうか?
「神を名乗ったからだ」そのようにお答えくださった方々もいらっしゃるでしょう。正解です。ユダヤ人にとって、神の名を名乗ることはそれぐらい許せないことなんだ・・・。そうおっしゃることでしょう。それも正解ですが「それぐらい」というところが問題なんです。
たしかに、イホシュアにかけられた罪状は「冒涜罪」です。それに対し、弁護側、つまりイホシュア側の主張は・・・ほとんど見られませんが、言わんとしていることは一貫しています。「冒涜罪」の前提は「神でもない人間が、神を名乗った」ということです。「神でもない」人間が神を名乗れば罪だが、神自身が神を名乗っているのだから「冒涜罪」ではないのです。
私は先日、神戸に唯一存在するユダヤ教のシナゴーグに行ってみましたが、その際に、知恵のある方にびっくりするようなことを聞かされました。「そのシナゴーグもメシアニック運動の一つで」・・・私は心が踊りました。メシアニック?彼らもイホシュアがメシアだと知っているのだ! しかし、蓋を開けてみると、彼らは別の人間をメシアと信じているのであって、ナザレのイホシュアをメシアと認めているのではないのです。
その方は教えて下さいました。「歴史上、イホシュアのようにメシアを名乗った人間は何人もいる。」と・・・。イホシュアが生きた時代にも、メシアを名乗った人間はいましたし、この時も、キリストは、無実になりかけています。裁決を委ねられたローマ人は、イホシュアに罪があるように見えなかったのです。「どんな罪をおかしたというのだ!」ほとんど苛立ちすら感じさせるセリフです。何に苛立っているのでしょう?理解できないからです。なぜ、こんなにもユダヤ人がこの同胞たるナザレ人の死を願うのか、さっぱり理解できなかったからです。
もし、ここでイホシュアが、「いままでのことは、ちょっとした気の迷いで、僕はメシアなんかじゃありません。奇跡なんか嘘です。ちょっとしたまやかしです。」と言えば、間違いなく、バカにされるだけですみ、むち打ち程度で住んだでしょう。命は助かったんです。彼自身、または、その場にいた母親のマリアがここで暴露すれば、間違いなく命は助かったはずです。
この逮捕がキリスト公生涯3年半の後に起きたというのも不可解です。「冒涜罪」がそれほどユダヤ人にとって破廉恥で許されざる罪ならば、山上の垂訓で何万人も集まっちゃった時点で逮捕されていたはずです。
しかも、この時は過ぎ越しの祭の時期、ユダヤ人にとって最も大切な祭の時期。本来だったら、汚れである「死」が発生するのは、ユダヤ人の本意ではないのです。この時期に逮捕することだけは避ける筈なのに、イホシュアは過ぎ越しの祭の直前に逮捕され処刑されるのです。
正解は、この時期にキリストが処刑されることこそが神の偉大なご計画であり、ユダヤ人の意思に大いに反して、この時期に逮捕処刑となってしまったのです。
ユダヤ人にとって、イホシュアはその辺にたくさんいた「自称メシア」の一人にすぎないのです。だから、ピラトがこう訪ねています「強盗のイホシュア」か「メシアなりすましのイホシュア」か。偶然にも罪人はふたりとも同じ名前でした。イホシュアはイスラエルではよくある名前なんです。しかし、イエスなどと言う名前はイスラエルに古今東西金輪際一度も存在していません。ピラトは、明らかに、民衆が「強盗に比べたら、メシア詐欺の方が軽い」と言うと期待しています。現にそうだったからです。「俺は知らんからな」と水に手を浸して水を払ったのもそのせいです。
イホシュアの噂は聞いていたとしても、奇跡は嘘だと思っていて、ありえないと思っていましたし、自称メシアも他にもいた。だから三年半も放置していたのです。
しかしながら、この逮捕を誘発した事件があります。 それが「ラザロの奇跡」です。私は、ラザロではなく「エリエゼルの奇跡」と呼んでいますが、どうしてそうなのかは、いずれまた。「エリエゼル奇跡」の事件は、キリスト逮捕から一週間ほど前、ベタニアというエルサレム近郊の小さな町で起こりました。イホシュアは死後4日たったエリエゼルという男を、よみがえらせたのです。四日前に死んだという訃報を聞いて、その場にはたくさんのユダヤ教の司祭たちも慰問に来ていました。エリエゼルはベタニアの有力者だったので、たくさんのパリサイ派の司祭たち(ユダヤ教の指導者。エリートたち)もエルサレムから駆けつけていました。この、奇跡は、このパリサイ人たちがその場にいるという条件があったから、起こることを許されたのです。
そこで、パリサイ人たちが、イホシュアの奇跡を目の当たりにしてしまったのです。これがただの嘘や、キリストを信仰する弟子たちのでっちあげだとしたら、キリストは、処刑されなかったのです。ここで、キリストを否定しているパリサイ人が見てしまったが故に、エルサレムにすぐにこのことが伝わり、イホシュアの処刑が決まったのです。
ユダヤ人は、まやかしの類には慣れていました。いくらでもいたのです。でも、死人を甦らせたというこの奇跡は、本当に起きてしまったがゆえに、ユダヤ人は、イホシュアを殺さざるを得なかったのです。
他の奇跡も、嘘だったなら、ピラトが味方であるうちに、ばらしてしまえばいいのに、イホシュアという男は一歩も譲らず、自己弁護も述べず、命乞いすらしません。
1.キリスト・イホシュアが実在したかどうか?
2.実在したとしても、聖書なる書物に書かれているイホシュアのしたこと、言ったことは全部ウソなのではないだろうか?
3.貴方がアジア人ならば、その外国人イホシュアが「貴方の神」であるのかどうか?
4.そもそも、神は存在するのか?
この4つの問題点のうち、4について、先週はおはなししました。
今日は、1と、先週お読みしたマタイの福音書27章のエピソードを通して2について考えてみたいと思います。
まず、キリスト・イホシュアは存在したのか。
イエス・キリストなるものは存在しませんでしたが、イホシュアというキリストは存在します。聖徳太子は存在しなかったが厩戸王(うまやとおう)は存在した、というのと同じです。
イエスはヘレニズム人が造った偶像です。実在したのは、ナザレのイホシュアと呼ばれた人物で、彼は現実として生身の体を持ってこの世に在りました。このことは、聖書以外の歴史書物にも書かれていることから、歴史を勉強した者として実在の人物だったと断言します。
問題は、それよりも、2の「実在したとしても、聖書なる書物に書かれているイホシュアのしたこと、言ったことは全部ウソなのではないだろうか?」という疑問です。
この疑問に答えるべく、このナザレのイホシュアの裁判をみてみましょう。
この、当時の政治背景をきちんと把握していきましょう。
この時代、ティベリウス帝が治めていました。ローマはアフリカを属州とし、そして、イスラエルも支配下に治めていました。ヘロデ大王と呼ばれた王の息子、ヘロデ・アンティパスは王というよりも、領主に成り下がり、彼はローマが許す限りの統治しか認められていませんでした。 イスラエルは完全に、ローマの属州だったのです。
だから、この裁判のシーンにローマ人ピラトの姿があり、彼が裁判長として裁決を下そうとしています。 イホシュアを殺そうとしているユダヤ人たちは、バルコニーの下で野次を飛ばすばかり。決して決定権が在るわけではありません。
実は、イホシュアがここにしょっぴかれていることそのもの、そして、イホシュアの権威失墜を目指しているはずのユダヤ人が十字架刑を求刑していること、さらにいうと、ローマがこの300年ほどあとに、キリスト教を容認するようになること、これらが、イホシュアが実在したこと、聖書に書かれている奇跡の数々が事実で在ったことを示しているのです。そして、イホシュアが神であり、私達を「滅び」の運命から救うために生まれ、十字架について死に、その3日後に蘇ることを明かししています。
キリストが真実であること。神であることを知るには、この裁判のシーンだけで十分なのかもしれません。すべての証拠は、現代に生きる私達の手に、すでにあるのです。
なぜ、イホシュアは逮捕されたのでしょうか?
「神を名乗ったからだ」そのようにお答えくださった方々もいらっしゃるでしょう。正解です。ユダヤ人にとって、神の名を名乗ることはそれぐらい許せないことなんだ・・・。そうおっしゃることでしょう。それも正解ですが「それぐらい」というところが問題なんです。
たしかに、イホシュアにかけられた罪状は「冒涜罪」です。それに対し、弁護側、つまりイホシュア側の主張は・・・ほとんど見られませんが、言わんとしていることは一貫しています。「冒涜罪」の前提は「神でもない人間が、神を名乗った」ということです。「神でもない」人間が神を名乗れば罪だが、神自身が神を名乗っているのだから「冒涜罪」ではないのです。
私は先日、神戸に唯一存在するユダヤ教のシナゴーグに行ってみましたが、その際に、知恵のある方にびっくりするようなことを聞かされました。「そのシナゴーグもメシアニック運動の一つで」・・・私は心が踊りました。メシアニック?彼らもイホシュアがメシアだと知っているのだ! しかし、蓋を開けてみると、彼らは別の人間をメシアと信じているのであって、ナザレのイホシュアをメシアと認めているのではないのです。
その方は教えて下さいました。「歴史上、イホシュアのようにメシアを名乗った人間は何人もいる。」と・・・。イホシュアが生きた時代にも、メシアを名乗った人間はいましたし、この時も、キリストは、無実になりかけています。裁決を委ねられたローマ人は、イホシュアに罪があるように見えなかったのです。「どんな罪をおかしたというのだ!」ほとんど苛立ちすら感じさせるセリフです。何に苛立っているのでしょう?理解できないからです。なぜ、こんなにもユダヤ人がこの同胞たるナザレ人の死を願うのか、さっぱり理解できなかったからです。
もし、ここでイホシュアが、「いままでのことは、ちょっとした気の迷いで、僕はメシアなんかじゃありません。奇跡なんか嘘です。ちょっとしたまやかしです。」と言えば、間違いなく、バカにされるだけですみ、むち打ち程度で住んだでしょう。命は助かったんです。彼自身、または、その場にいた母親のマリアがここで暴露すれば、間違いなく命は助かったはずです。
この逮捕がキリスト公生涯3年半の後に起きたというのも不可解です。「冒涜罪」がそれほどユダヤ人にとって破廉恥で許されざる罪ならば、山上の垂訓で何万人も集まっちゃった時点で逮捕されていたはずです。
しかも、この時は過ぎ越しの祭の時期、ユダヤ人にとって最も大切な祭の時期。本来だったら、汚れである「死」が発生するのは、ユダヤ人の本意ではないのです。この時期に逮捕することだけは避ける筈なのに、イホシュアは過ぎ越しの祭の直前に逮捕され処刑されるのです。
正解は、この時期にキリストが処刑されることこそが神の偉大なご計画であり、ユダヤ人の意思に大いに反して、この時期に逮捕処刑となってしまったのです。
ユダヤ人にとって、イホシュアはその辺にたくさんいた「自称メシア」の一人にすぎないのです。だから、ピラトがこう訪ねています「強盗のイホシュア」か「メシアなりすましのイホシュア」か。偶然にも罪人はふたりとも同じ名前でした。イホシュアはイスラエルではよくある名前なんです。しかし、イエスなどと言う名前はイスラエルに古今東西金輪際一度も存在していません。ピラトは、明らかに、民衆が「強盗に比べたら、メシア詐欺の方が軽い」と言うと期待しています。現にそうだったからです。「俺は知らんからな」と水に手を浸して水を払ったのもそのせいです。
イホシュアの噂は聞いていたとしても、奇跡は嘘だと思っていて、ありえないと思っていましたし、自称メシアも他にもいた。だから三年半も放置していたのです。
しかしながら、この逮捕を誘発した事件があります。 それが「ラザロの奇跡」です。私は、ラザロではなく「エリエゼルの奇跡」と呼んでいますが、どうしてそうなのかは、いずれまた。「エリエゼル奇跡」の事件は、キリスト逮捕から一週間ほど前、ベタニアというエルサレム近郊の小さな町で起こりました。イホシュアは死後4日たったエリエゼルという男を、よみがえらせたのです。四日前に死んだという訃報を聞いて、その場にはたくさんのユダヤ教の司祭たちも慰問に来ていました。エリエゼルはベタニアの有力者だったので、たくさんのパリサイ派の司祭たち(ユダヤ教の指導者。エリートたち)もエルサレムから駆けつけていました。この、奇跡は、このパリサイ人たちがその場にいるという条件があったから、起こることを許されたのです。
そこで、パリサイ人たちが、イホシュアの奇跡を目の当たりにしてしまったのです。これがただの嘘や、キリストを信仰する弟子たちのでっちあげだとしたら、キリストは、処刑されなかったのです。ここで、キリストを否定しているパリサイ人が見てしまったが故に、エルサレムにすぐにこのことが伝わり、イホシュアの処刑が決まったのです。
ユダヤ人は、まやかしの類には慣れていました。いくらでもいたのです。でも、死人を甦らせたというこの奇跡は、本当に起きてしまったがゆえに、ユダヤ人は、イホシュアを殺さざるを得なかったのです。
他の奇跡も、嘘だったなら、ピラトが味方であるうちに、ばらしてしまえばいいのに、イホシュアという男は一歩も譲らず、自己弁護も述べず、命乞いすらしません。
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