安息日礼拝 vol 14 愛する人と呼びたくて

庚子年が明けました。
 神がアジアに定められた新年にあたり、皆様にご健康と祝福が豊かに与えられますよう、心を尽くしてお祈りいたします。ようこそ、KJJKの安息日礼拝へ

 今日は元旦
 この元旦の過ごし方と、神が安息日に私達に求めている過ごし方は大変にかよっています。
 安息日、神は人に、あらゆる仕事を休止し、女たちも煮炊き掃除をしてはならず、ただひたすら家族で主を礼拝することを命じておられます。
 年末に大掃除をするのも、おせち料理、お雑煮などの正月料理のシステムも、すべて女性を休息させるためのものです。意外と男の人が仕事を休む方が簡単にできるものです。しかし、女性の仕事はそうは行きません。私の仕事がいわゆる「ガチ女性の仕事」だと思うのです。私はプロの母親です。我々女性は、なかなか休めないものです。
 神は究極のフェミニストです。安息日に火を使うことを禁止したのは、女性も男性に変わりなく安息日をまもり、主を礼拝できるようになさっているのです。

 主を礼拝する・・・というのがどういうことなのか。
 これをある女性の姿を通して見てみたいと思います。

1.ベタニアのマリア
 ルカ10:38~42をご覧ください。
 前々回の安息日礼拝のメッセージで、一瞬だけ、ベタニアという村についてお話しました。このベタニアという村はエルサレムから南東約3キロのところにあるのですが、イホシュアにとって、この村は育ったナザレ、生まれたベツレヘム、そのほかエルサレム以外のどの町にも増して特別な意味を持った町です。まず、イホシュアが洗礼を受けたのもこの村です。復活してから、昇天したときにもベタニアにいました。つまり、ベタニアこそが、初臨のキリストが最後に踏んだ土地なのです。洗礼、処刑、昇天・・・まるで生涯の大切な新しい局面に入る前に、チェックポイントであるかのように、イホシュアはベタニアの地を踏んでいます。しかし、イホシュアにとってこの村を特別にならしめたもの。それは明らかに、このベタニアに住むマリアの存在があったからです。
 また、爆弾発言をしてしまいますが、イホシュアが結婚していたらなにか不都合があるかのように言うのがキリスト教という宗教団体ですが、イホシュアは結婚していたと考えるのが一番妥当です。イスラエル社会を知っているならば、当然結婚しているのです。神だからこそ、結婚するはずなのです。イホシュアが結婚していたら彼の神性が失われるというのは、自分の不必要なストイックさを正当化したい、カトリックの妄想です。ただ、その「妻」としてマグダラのマリアが最有力候補なのですが、私はベタニアのマリアだと思うのです。
 歴史学者の中には、マグダラのマリア、ベタニアのマリア、この二人のマリアが同一人物であると見ている人がいます。私はその可能性はおおいにあると考えています。イホシュアの処刑後、弟子たちですら命の危険を感じていますから、いわんや彼の妻子をや、です。弟子たちは、イホシュアの家族を守るために彼らのことを隠したことでしょう。
 いずれにしても、イホシュアは、このベタニアのマリアを特別に気にかけ彼女故に、このベタニアに何度も足を運び、さらに、処刑前の一週間は、ベタニアとエルサレムを往復しています。イホシュアにナルドの香油を注ぎ、彼の足を自分の髪で拭き清めたのもこのマリアです(ヨハネ12:1~8)。私はこのシーンをとても「センシュアル」なシーンだと思っています。至上の愛の行為です。しかも注いだのは、大変高価な、死者を聖別し、防腐処理をするためのナルドです。
 ご存知でしょうか。このナルド、ものすごい強い香りなのです。私の個人的なイメージですが、2000年前の香油壺というのを見たことがあるのですが、それと同じだとすると700mlほどが分だんに注がれたのでしょう。一般市民の一年分の給料ですから、現在のお金に換算すると、100万円か200万円ではないでしょうか。それを、ドボドボと注いだわけです。キリストが亡くなった時も、このナルドの香りがまだ残っていた筈です。それぐらい強い香りなのです。
 私は、ある夏のはじめに道を歩いていて、クチナシの花の香りに、神の愛を感じたことがあります。クチナシの香りが私への「ラブレター」だと感じたのです。人間の脳は嗅覚によって活性化するのです。

 さて、このマリアにはマルタという姉がいました。このマルタとの対比は、どの教会でも話されることです。おそらく、どの教会でも「奉仕活動が大切なのではなくて・・・神様の御言をしっかり聴くことが大切なんですよ」という教訓話になるでしょう。
 いつものとおりです。その通りです。
 あるいは、もしかして、ここでイホシュアが姉であるマルタに対して「お前も座って話を聞きなさい」とお命じにならなかったことから、教会という組織では役割分担が大切なのであって、信者になって日が浅い人たちがしっかり牧師の話を聞けるように、先輩信者はしっかり雑用をこなして奉仕しなくてはならない。と説く教会も在るかもしれません。
 これも、いつもどおり。その通りだと思います。
 私は、マリアが物理的にイホシュアの妻であるかどうかはさておき、このベタニアのマリアが花嫁の型であることは間違いないと思っています。イホシュアが我々、選ばれた神の民に対してどのような関係性を求めておられるか…それがこのシーンから伺えます。

2.愛する人
 こだわりだすとキリがないのですが、名前に焦点を当ててみましょう。
 マルタは、本来アラム語で「貴婦人」あるいは「主婦」という意味です。マルタはその名の通り、せっせと世話を焼いて働いています。彼女はきちんと努めを果たしているのです。これは、社会的にはまっとうなことです。
 その他方でマリアは、本来ヘブライ語ではミリアムという名前で、「愛する人」という意味です。
 マルタは、自分はせわしく働いているのに、女の分際でありながらドデンとイホシュアの足元に座り込んで彼の話に聞き入っているマリアに、少なからぬ苛立ちを感じて、イホシュアに言っています。「私だけがもてなしの仕事をしてるのを、なんとも思わないの?手伝うように言ってちょうだい。」当時のイスラエル社会において、マルタが言う通り、女性が男性たちよりも前に出て、座り込んで説教を聞くなどとんでもないことです。しかし、イホシュアはそれに対して「マルタ、マルタ(主婦よ、主婦よ)あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだ。ミリアムは(私の愛する人は)良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 マルタは、世俗的、一般的にまっとうな生活、つまり三次元の生存活動を象徴しています。それはそれは、大切なことです。衣食住を充分にするために社会的な責任を果たすことは大切なことです。しかしイホシュアが求め「愛する人」と呼ばれるのは、足元でじっと自分の話を聞いている女性の方です。
 神はあなたを「ミリアム」と呼び、あなたが神にそう呼ばれているのを聞かせたいから安息日をお定めになったのです。礼拝とは、歌を歌ったり、儀式張ったことをするのが大切なのではないのです。牧師の話を聞くことすら、対して大切ではありません。その牧師が神の奥義を理解せず、宗教指導者として説教しているならばなおさらです。神は牧師の後ろにいるのではありません。あなた方一人ひとりの魂とつながっておられるのです。
 マルタもマリアも共通してしたことがあります。それはイホシュアを喜んで迎え入れたということです。 貴方がイホシュアを喜んで迎え入れたなら、イホシュアは貴方の中に住むのです。もはや牧師や神父など必要ありません。
 主は、ご自身のすぐ足元に貴方を座らせて、その御言を聞いていてほしいと思っておられるのです。
 主の言葉をもう一度見てください。ミリアムが良い方を「選んだ」とあります。そうです。選ぶのは貴方なのです。

3.嫌われ者の家
 聖書でベタニアと呼ばれた町の語源なのですが、実ははっきりしていません。イチジクの家となりますが、「悩みの家」とか「悲しみの家」「貧困の家」という意味に転じるという説をよく目にします。イチジクは、むしろイスラエルの象徴です。「イチジクの家」とはそのまま「イスラエルの家」と捉えるべきでしょう。
 ただ、「悩みの家」すなわち「嫌われ者の家」と捉えても違わないのは、今、ベタニアがどういう場所なのか、ということにつながります。かつてのベタニアは現在のアル・エイザリアに当たるはずです。現在はパレスチナ人が住む村なのです。ユダヤ人VSパレスチナ人の抗争はあまりにも有名です。ユダヤ人から嫌われてしまっている(パレスチナ人もユダヤ人を嫌っています)パレスチナ人の居住地になりました。
 これら一連の事柄を、預言的に時系列に並べて考えてみましょう。

・イスラエルの家(神に選ばれた民)の中でも、「愛する人」と呼ばれるのは、イホシュアの足元に座りその御言に耳を傾けることを「選んだ」者である・
・イスラエルの家(神に選ばれた民)はやがて、嫌われ、貧困になる。

 笑ってしまうほど、極論かもしれませんが、イホシュアは「天国の門を金持ちが潜るよりも、針の穴をラクダが通る方が簡単である。」と言っています。
 このことを、終末の預言として受け取ったとしても、あながち間違ってはいないのではないでしょうか。

 


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